【 会稽豪族の娘 】
- 孫権夫人・謝夫人は会稽郡、山陰の生まれである。
- 会稽・山陰の謝家はある程度の豪族であったと思われる。と言うのも、謝夫人の父・謝煚は、漢の尚書令や徐県令を勤めており、謝煚の弟・謝貞も建昌県令となっている。また、謝夫人の家系との繋がりは定かではない物の、会稽・山陰の人として謝賛、経済政策から陸遜に支持された会稽の人物として謝淵などがおり、どうも呉の謝姓の人物の大半は会稽・山陰の人材ではないか?と思われる節があるからだ。ただし謝煚・謝貞いずれも県令止まりであり、強大な力を持った豪族とまでは行かないようだ。
- 孫権の母・呉夫人は、孫権の妻として、この会稽豪族の娘である謝夫人を選択した。次に伝のある徐夫人を娶ったのは200年~208年の事(孫権が討虜将軍であった期間)と断定できるので、謝夫人を娶ったのはそれ以前の事と推定できる。会稽豪族を妻に迎えるというタイミングと、孫権夫人伝として最初に立てられているという点、孫権の年齢などを考えると、謝夫人を娶ったのは、196年か197年、孫策が会稽討伐の軍を起こしている時期の事であると考えると自然かも知れない。呉夫人が謝氏の娘を孫権の妻として選んだのは、孫呉の基盤強化のためであるのは間違えない。ただし、当時の孫呉はさほどの名家ではなく、強大な豪族と婚姻家系を結べば立場が逆転してしまう可能性もあるので、釣り合いの取れる相手を選んでいるとも言えるだろう。
- 謝夫人は寵愛を受けたとあり、夫婦間は円満だったようだ。徐夫人が孫権夫人として娶られるまでは。
200年~208年の間に、孫権は徐琨の娘である徐夫人を妻に迎える。その際、謝夫人は徐夫人の目下として仕えるように望まれたらしいのである。これは、徐琨の持つ部曲(私兵)の数は多く孫呉にとって重要な戦力であった事、徐琨は平虜将軍・広徳侯となっており家の格としても上であった事などが原因として考えられる。だが謝夫人はこの扱いを受け入れることが出来ず、この事が元となって次第に寵愛を失い、早世したと言う。 - このように、謝夫人は悲しい末路を歩んだのであるが、謝家全体を考えるとこの婚姻はプラスだった。謝夫人の弟の謝承が次第に才覚を発揮し、五官中郎将・長沙東部都尉・武陵太守と昇進を果たしたからだ。謝承は「後漢書」百余巻を著し、三国志や後漢書などの注として採用されている。-謝夫人伝 了-