【 孫登の教育係 】
- 徐夫人は呉郡、富春の生まれである。
- 富春は孫家発祥の地であり、富春の徐家と孫家の関わりは古い。孫堅は元々、父親の名すら定かではないほどの下賤の身分であったが、呉郡の豪族である呉氏との婚姻により、一定の基盤を築くのに成功している。すでに徐夫人の祖父・徐真と孫堅の妹との間に婚姻関係が結ばれており、富春の徐家はかなり初期から孫家と行動を共にした豪族グループの一つなのである。
- その孫堅の妹と徐真の間に生まれた子が徐琨である。徐琨は孫堅期・孫策期を通して強力な部曲(私兵)を持って活躍しており、孫策などは、徐琨の兵力が多すぎるため彼を丹楊太守の座から外したりしている。あまりに勢力が強くなりすぎるのを嫌っての事だ。それほど、初期の孫家にとって徐家の存在は大きかったのである。詳しくは徐琨伝で述べるが、はっきり言うと徐家は特別扱いである。その徐琨は、199年の黄祖討伐の際に戦死している。
- さて、徐夫人は初め陸尚に嫁いでいた。陸尚は廬江太守・陸康の孫に当たる。陸家は江東有数の名家。特に陸尚は陸康が廬江の賊を討った際にその功績として郎中に任じられており、陸家直系に近い存在であった。おそらく早世しなければ、陸康の跡継ぎとなっていたと思われる人物である。よってこの婚姻は徐家にとって非常に重要な物であった。だが陸尚は早世し、陸家は陸議(陸遜)を長とし、陸康直系は陸績が継ぐ。想像の域を出ないのではあるが、後漢書・陸康伝では孫策が陸康を攻めた時に一族の者多数が死去したとあり、陸尚が死去したのも、この孫策の廬江攻撃の時ではないか?と思う。でなければ、陸康が死去した時点で、亜流でしかも若年の陸議が長に指名される理由が薄い。
- 徐夫人が孫権に嫁いだのは、孫権が討虜将軍として呉に拠点を置いていた時期、つまり200年~208年の間と推定できる。しかも、孫権は徐夫人を孫登の母代わり(養育係)にした、とある。妻となって養育係になる点が普通の婚姻とはちと異なるイメージを受けるが、取りあえず先に。孫登は209年生まれ。という事は、徐夫人が孫権に嫁いだのは200年の後半、208年の方に近いと思われる。この婚姻は初めから政略的要素が相当に強い婚姻であった。こういう状態であるからこそ、徐夫人と孫権の間には子は生まれず、しかも徐夫人は孫権に嫁いですぐに孫登の養育係となったのである。
- 普通に考えて、この状態が女性として幸せであるはずがない。そもそも、前の夫を殺した孫家に嫁ぐというのはどんな気持ちだっただろうか?さらに言えば、徐夫人は孫権の叔母の孫に当たり、当時の価値観から言っても、あまり勧められる婚姻ではない。徐夫人伝には【徐夫人は嫉妬深いという事で廃された】とあるが、それだけではあるまい。そもそも、うまくいく婚姻ではなかったのだ。この婚姻は同時に謝夫人も悲運に追い込んでおり、誰に取っても良い婚姻ではなかったと言えるだろう。
- (注)徐夫人が孫権の妻に迎えられたのは200年~208年の間の事。前述のように通常、あまり勧められる結婚ではない。しかも状況から見て孫権が好んで妻にした訳ではなさそうだ。つまり政略結婚。ではどんな目的があったのか?
普通に考えれば徐家との関係構築になるが、これだけでは必要性が薄い。徐家とはすでに孫堅期から関係性が深く、今さら感がある。で、一つ思い当るのが「陸家」である。徐夫人は、陸家正統に極めて近い立場にある陸尚の妻だった。しかし孫策の廬江攻撃によって陸康(おそらく陸尚も)は死去。陸議(陸遜)が仮の家長となる。後に孫権が当主となると、203年、陸議は孫権に出仕する。と同時に孫策の娘を妻とした。孫家と陸家の間に起った事件の事を考えると、絶対的な必要な婚姻関係である。
だが、これは陸家側の関係修繕策。孫家側にも必要ではないのか?廬江攻撃を行ったのは孫家側なのだから。そういう意味で、未亡人となった徐夫人を孫権が妻に迎えれば、徐家にとっても陸家にとっても孫家と関係を再構築するきっかけになる。
- (注)徐夫人が孫権の妻に迎えられたのは200年~208年の間の事。前述のように通常、あまり勧められる結婚ではない。しかも状況から見て孫権が好んで妻にした訳ではなさそうだ。つまり政略結婚。ではどんな目的があったのか?
- 徐夫人が廃されたのは孫権が拠点を変えた時とあるので、おそらく建業遷都のあった212年の事だ。だが、それでも徐夫人は孫登の養育係としてがんばった。その成果が孫登が皇太子となった段階で、すでに廃されていたはずの徐夫人を皇后に立てるように群臣が願い出たという所に現れる。また、皇太子となるに当たって孫登は「皇太子を立てるには、まずその母親を皇后に立てるのが筋」と述べ、暗に徐夫人の皇后即位を促している。孫権の息子とは思えないほど人格的に優れた人物で(え?)、徐夫人が懸命に孫登の養育をやっていなければ、群臣が皇后に推す事も、孫登がこれほど優れた人物に成長する事も、あり得ない事である。だが、孫権はすでに最愛の歩夫人を皇后にしたいという気持ちを強く持っており、徐夫人が皇后となる可能性は消え失せた。
- (注)ここも香しいw
徐夫人と孫登は事実上の親子関係に等しい。で前述のように徐夫人と陸家には繋がりがあり、陸遜が孫登と繋がるのは、必然の流れのように思える。で、孫権。孫権は孫登が皇后に押す徐夫人ではなく、歩夫人を皇后にしたかった。当然、歩隲は陸遜と敵対する関係になる・・w ああ、香しいw
(陸遜ー徐夫人ー孫登)・・(孫権ー歩夫人ー歩隲)
想像を掻き立てられるが想像でしかない。
- (注)ここも香しいw
- 徐夫人はその後、病気で死去した。決して幸せな人生とは言えなかっただろう。だが、時代の波に飲まれながらも、健気に生きた女性像を徐夫人に見ることができるのである。 -徐夫人伝 了-