【 孫皓の正室 】
  • 滕夫人は滕胤の一族の滕牧の娘である。
  • 滕家は劉繇との関係が深く、代々婚姻関係を結んでいたと滕胤伝にある。代々婚姻関係を結んでいたらインブリードが濃すぎてやばいので、これは例によって筑摩の誤訳であろう(汗。原文は【通家】。要するに婚姻関係があり親戚だったという事だろう。劉繇と婚姻関係があり関係が深いという事は、滕家もまた名士だったという事だ。であるからこそ、孫権は滕家の人々を厚く遇してきたのである。
  • 滕夫人の父、滕牧は滕家本流とはすこし離れた位置にいる族子である。だから滕胤失脚時に滕一族が皆殺しにされた時も、死罪を免れ辺境へ強制移住されられていた。が、孫休が即位すると許され中央に戻ってくる。同時に孫休は孫晧を鳥程侯に封じる。孫和の一族は長沙に強制移住の挙げ句、自殺を命じられている。つまり、滕牧の復帰も孫晧の爵位も、孫権晩年期~孫亮期にかけての呉の混乱の修正策である。そして、孫晧は鳥程侯の爵位を受けた後、滕牧の娘を妃とした。何者かの仲介なくして、共に辺境に流されていた者同士の婚姻が成立するとは思いがたい。つまりこの結婚はたぶんに政略的な臭いがする結婚であると言えるだろう。
  • だが、少なくとも孫晧の皇帝即位時の段階では滕夫人と孫晧の関係は冷えてなかった。だからこそ、孫晧は即位したその年に滕夫人を皇后に立てたし、滕牧は高密侯に封じられ、衛将軍となった。善し悪しは別にして、孫晧は情は厚い。ましてや、自分とよく似た境遇にあった滕夫人を慈しむ気持ちはあったのではないか?と思えなくもない。
  • だが、滕夫人伝によると、孫晧と滕夫人の蜜月関係はここまでだったらしい。孫晧は即位すると、次第に暴虐がつのり、群臣たちは滕牧が外戚であった事から、幾度も彼を押し立てて諫言を上奏させた。しかし、その頃にはすでに孫晧の滕夫人への寵愛は薄れており、孫晧は滕牧の諫言を受け入れる事はなかったと言う。実際に彼が孫晧を諫める場面は、王蕃処刑の記述に出てくるのだが、確かに孫晧は滕牧の助命嘆願を受け入れていない。266年には、滕牧は武昌の守備に留まっているので、滕牧が孫晧に諫言の上奏をしたというのは、それ以前の数年の間の事であろう。孫晧が即位したのが、264年の事であるから、滕夫人が皇后として寵愛を受けた期間というのは、孫晧が即位してわずか数年の間だけという事になる。
  • その後の孫晧の暴虐の数々はもうここでクドクド述べる必要もないだろう。こうなると、滕夫人が廃される可能性の方が高いのであるが、孫晧の母、可姫が滕夫人の口添えをしてくれたのと、暦の運勢から言って皇后を変えてはならないと占いが出た事もあって、滕夫人は皇后の座を降ろされずにすんだ。そういった事から滕夫人は可姫へのご機嫌伺いは欠かすことがなかったと言う。
  • しかし皇后を降ろされなかったとはいえ、孫晧の滕夫人に対する冷遇は続いた。父の滕牧は爵位こそ奪われなかったが、交州の蒼梧郡に強制移住、その道中で失意のあまり病死する。滕夫人つきの官僚は名目的にそろっているだけで、孫晧は次々と女性を後宮に入れて、皇后の印綬を受けた者が少なからずいた・・・と滕夫人伝にはある。
  • ただ、この記述は多少差し引かねばならない部分もあるだろう。その辺りの事に関しては、孫晧伝10【 孫晧にまつわる虚と実 】である程度述べたので重複はさける。要するに孫晧が後宮に女官を入れたのは事実だろうが、皇后の印綬を賜った者がそうそういたとは思いがたい。呉書に出てくる孫晧の妻の逸話を見ても、張布の娘、左夫人の王夫人とさすがに皇后まで行った・・・という人はいない。つまり尾ひれがついてしまっているのではないか?と思われる部分である。滕夫人伝にも江表伝の注として、「孫晧は二千石以上の臣下の娘の名を申告させ、15~6歳になると選別を受けて、それに外れて初めて嫁に行けた。後宮には何千人という女官がいたがそれでも女官を選ぶのを辞めなかった。」というのがある。これはさすがににわかに事実とは思いがたい部分だろう。裏付ける証拠としては陸凱伝末に付記されている陸凱の二十の諫言上奏文(陸凱による二十項目の孫晧への諫言の文。その中に「後宮には万を超える女官がいる。」と書かれている。)があるが、それ自体も陳寿が「(このような上奏があったのかどうか)真偽を明らかにしがたいので本文の末に付記する。」とした部分である。
  • さて、滕夫人は呉滅亡後、280年に孫晧に従って洛陽に移住した。その後の滕夫人については詳細がない。これも可姫伝同様である。つまり、晋代に入ると呉書は完結しなかったという事だろう。いつ死んだのか明らかでないので陳寿は何も加えなかったと思われる。 -滕夫人伝 了-