【 部下に誅される 】
  • 孫翊、字を叔弼。孫堅の三男で孫権の弟に当たる。勇猛果敢で孫策に似た風情があったと言う。
  • 孫翊の生年は、203年に偏将軍・丹陽太守に任命された時に20才であった事が書かれており、生年は184年と特定できる。孫権とは二歳違いという事になる。また、孫翊伝によると、「太守の朱治が孫翊を孝廉に推挙し、孫翊は司空の役所から出所するように招かれた」とある。これは孫策伝にある「曹操は孫策をひとまず手なずけようとして・・・孫権と孫翊を自分の元に招いて官職に就け・・・」の部分に当たる。また孫権伝には「孫権は郡から孝廉に推挙され・・・」とあり、孫権も同様に呉郡太守の朱治から孝廉の推挙を受けた事が分かる。朱治伝を見ると「孫権が15の時、朱治は孫権を孝廉に推挙した」とある。ということは孫翊が推挙されたのも15才になってから(成人してから)と推測でき、それは198年という事になる。
    • (注)孫策伝の「曹操は孫権と孫翊を自分の元に招いて官職に就け・・・」という記述と孫翊伝の「司空の役所から出所するように招かれた」という記述から、孝廉に推挙された後、中央から招きがあった事が分かる。これはおそらく孫権も同じ。だが、実際には二人とも中央には行っていない。おそらく丁重に断ったのだろう。行ったら人質と同じだから。
  • 孫翊伝注典略に「孫翊の本名を儼という」とある。つまり孫翊には別名があって孫儼と言った。おそらくなんらかの理由で改名した物と思われる。理由は分からない。典略によると、孫策死亡時には孫儼と呼ばれているので改名はそれ以降である。うーん、これは考えても分からない。先に行く。孫翊は性格が孫策に似ていた。何カ所かに孫翊の性格についての記述があり、「兄・孫策の風があった」「その性格は孫策に似ていた」「性急で容赦のない性格。喜怒の感情のままに振る舞った。」などと書かれている。つまり、長所も短所も孫策に似ていた。だから、張昭などは孫翊に跡目を継がせるべきだと思っていたようだ。だが、孫策は孫権を選択した。その後の孫翊の死に方を見ると、孫策の眼は正しかったと言えるだろう。
  • その後、203年に孫翊は偏将軍・丹陽太守となった。これは前・丹陽太守・呉景の死去を受けての物だ。なぜ、呉景の子どもが太守を引き継がなかったかというと、呉景伝で述べたように外戚の力を削ぐためだろう。丹陽は孫家直系で支配したかったのだ。だが、204年に孫翊は部下に誅殺される事になる。
  • 孫翊の死に関しては、孫翊のその他のエピソードの量を遙かに凌駕する字数で書かれている。つまり、孫翊のエピソードというのは、孫翊の死が最大のエピソードである。かわいそうだが仕方ない。なんせ丹陽太守になった以外は功績らしい功績は何もないのだから。
  • 孫翊伝には、孫翊は側近の辺鴻に殺された、とあるだけだが、孫韶伝にまとまった記述がある。まず本文の記述のみを追っていくと、孫翊を殺害したのは側近の辺鴻である。だが、その事を孫河から強く責められた嬀覧と戴員は、このままでは一族根絶やしになると考え孫河を殺害、さらに揚州刺史の劉馥と内通して丹陽で反乱を起こそうとした。が、孫翊の旗本であった徐元・孫高・傅嬰らによって殺害された・・・という事になる。
  • しかし、注の呉歴によると多少、事情が異なる。嬀覧と戴員はそもそも辺鴻と親しくしており、孫翊を直接殺害したのは辺鴻だが、殺害の主犯は嬀覧と戴員である。その後、孫翊の妻の徐氏による復讐劇となるのだが、呉歴の記述は、おそらく徐氏の美談を強調するための記述であろうから、どこまで信用して良いものか分からない。ここではなぜ孫翊が殺害されたのかについて、考えていく。
  • まず辺鴻についてだが、本文では側近だったとある。原文は「左右」。要するに側にいたという意味か?ところが、呉歴によると、嬀覧と戴員は辺鴻と親しくしていた事を孫翊に責められたとあり、辺鴻が側近であったなら、嬀覧と戴員が辺鴻と親しくしたらなぜ孫翊に責められるのかどうも腑に落ちない。辺という姓も珍しく呉では他に該当者がいない。辺鴻が地元の有力豪族であった訳ではなさそうだし、あまり呉歴の記述に惑わされない方が良いだろう。大都督と郡丞だった嬀覧と戴員とは比較にならない小物である。
  • 孫翊が辺鴻に殺されたのは、むしろ孫翊自身の問題なのかもしれない。孫翊は喜怒の感情のままに振る舞ったとあり、そもそもこのタイプの人間は恨みを買って殺されやすい。だがその後、孫河まで殺されて、大都督と郡丞だった嬀覧と戴員が揚州刺史と内通し反乱を起こそうとしたとなると、丹陽郡の施政の問題点が出てきそうだ。まず嬀覧と戴員は前の呉郡太守・盛憲によって孝廉に推挙されており、そもそもは呉郡にいた事が分かる。どこかで二人は北方移住系名士ではないかと書いた覚えがあるが無視してほしい(汗。おそらく、真相に迫るには盛憲にまで遡って考える必要がありそうだ。
  • 盛憲は会稽郡の人である。尚書郎の後、呉郡太守となった。孔融らと交わりを持っており、高い名声を得た名士である。呉・会の名士層と反目した孫策政権にとっては潜在的な敵と言って良い。盛憲は後に孫権によって殺害されている。時期的にはおそらく孫権が会稽太守となった200年前後だろう。孫政権が会稽郡経営を行う上で障害となったため殺害されたと考えて良い。そして嬀覧と戴員は山中に逃れる。が、203年に孫翊が丹楊太守となると二人を呼び寄せ、大都督と郡丞に任じた。
  • 不思議に思うのはなぜ孫翊は嬀覧と戴員に郡の重要な役職を委ねたのかである。孫翊死後、丹楊太守を引き継いだ孫瑜は江西(寿春・合肥)出身者を重用している。当時の孫呉政権に江西出身者が多かったことを考えれば自然な選択と言って良い。しかし孫翊は呉郡出身で、名士であった盛憲と関係の深い二人を郡経営の中核とした。この選択自体が間違っているのでないかと思われてならないのである。正直言って扱いづらい。成り上がりの孫家を軽んずる可能性がある上に盛憲殺害の一件がある。孫家に悪しき感情を持っていたとしても不思議ではない。確かに孫権も丁度この頃から、顧雍ら呉郡名士を旗下に加えていくのだが、揚州豪族に政権の中心がシフトしていくのはもう少し先の事だ。
  • 結局、嬀覧と戴員は太守の殺害に至った。孫翊に統治者としての問題点があったとしても軽んじられた感は否めない。さらに孫河まで殺害したとあっては、二人が孫呉政権に与えたダメージは計り知れない。詰まるところ、こうした人物を重用した孫翊の経営感覚に問題がある訳で、やはり孫策が孫翊を後継としなかったのは正解だろう。しかし、無理からぬ所もある。204年当時、孫翊はわずか20歳である。成り上がりで若すぎる太守に揚州名士・豪族がどういう敬意を示すだろうか。孫策のような天才は滅多にいないのだ。孫権も政権継続をした当時は苦労に苦労を重ねた。配下が当主を侮辱するなど日常茶飯事だったのだ。右も左も分からないまま太守という大役を任され、政権運営のなんたるかも分からないままの死だったのではなかろうか。 -孫翊伝 了-