【 国家の城壁 】
- 孫奐、字を季明。孫静の四男。
- 兄、孫皎死去後、その配下を指揮し揚武中郎将・江夏太守となった。孫瑜-孫皎-孫奐と続く部曲の三代目である。この部曲の統率者は孫奐に至るまで、なぜか兄弟相続されているのだが、これはどうやらやむにやまれぬ事情あっての事らしい。孫瑜も孫皎も三十代で死去しているのだ。つまり、先代が死去した段階で、子は十代だった可能性が高く、重要拠点の司令官となるには厳しかったのだ。
- 孫奐は234年に40歳で死去したとあるので、194年の生まれ。兄・孫皎が死去したのが219年であるから、江夏太守となったのは25歳の時となる。で。筑摩訳によると、孫奐がその職にあったのは一年間だけだった・・・とあり、斜め読みすると江夏太守であったのが一年だけだった・・・という意味に読めるのだが、これは勘違い。226年の石陽攻撃の際に、孫奐はその地の太守であった事から先鋒となったと書かれている。石陽は江夏郡に属しているので、226年の段階でも孫奐は江夏太守だ。つまり、その職にあったのが一年だけだった・・・というのは、揚武中郎将の事を指している。
- 孫奐は劉靖・李允・呉碩・張梁・閭挙ら、孫皎旗本たちを重用し、職務をテキパキとこなしたとあり、統治者として合格点はあげられる。ただ、全般的に兄・孫皎の施政をそのまま引き継いだという印象が強く、孫瑜・孫皎の二人の兄ほどのインパクトはない人物だ。孫奐伝にも【孫奐は即妙の受け答えは不得手だった。】とか【(孫権は)孫奐がのろまで気が利かない点を心配していた。】とあり、才能豊かな人物であったという印象は薄い。だが、与えられた職務を過不足なく遂行するという意味では、十二分に優秀であった。孫奐も兄たちに習い、部曲の子弟たちに学問を奨励した。こうした子弟の中から後に朝廷に出仕するようになった者たちが数十名出たと言う。オリジナリティーには欠けるが、軍・政ともに江夏太守として申し分ない。
- 226年の石陽攻撃の際、孫奐は鮮于丹に命じて淮水流域の通路を遮断させると、自ら呉碩・張梁らを率いて先鋒となり、高城を降して三人の将軍を捕獲した。石陽攻略戦は江夏太守・文聘の前に大した戦果もなく終わった戦いであり、この孫奐の戦果がほとんど唯一の戦果である。帰還してから孫権は閲兵をしたが、その際、「孫奐はのろまで気が利かない点を心配していたのだが、今見れば軍をしっかりと治めており、私が心配する事もなかった。」と言った。孫権の孫奐評が見て取れる一文である。孫権は孫皎死後、孫奐がその後を引き継げるのか、心配だったのだ。孫皎が優秀であったが故に。だが、孫奐は期待を裏切る事はしなかった。孫皎以上の無理でも、孫皎以下にはならないように現状維持はできる人物だったのである。
- 石陽戦役後、孫奐は揚威将軍・沙羡侯となった。229年の石亭の戦いでも、孫奐は一定の役割を果たしている。周魴の偽投降の手紙の中に、孫奐が安陸城の補修をしているとあり、蒋済伝にも呉軍が安陸を攻撃したとある。つまり安陸城攻略の主力は孫奐であった。
- その後、孫奐は揚威将軍・沙羨侯となった。おそらく孫権の皇帝就任後の事であろう。そして234年に40歳で死去した。孫奐死後、息子の孫承が江夏太守として父の後を継いだため、孫瑜-孫皎-孫奐と三代続いた兄弟相続はここに終わりを告げることとなる。孫承は243年に死去したが、息子がいなかった事から庶弟であった孫壱が後を継いだ。詳しくは外伝で述べるが、孫壱は孫綝との確執から、諸葛誕の乱の際、部曲千余名を率いて魏に投降した。つまり、孫瑜から始まった宗室部曲は、孫瑜-孫皎-孫奐-孫承-孫壱と五代続いた後、消滅した事となる。孫呉政権において、これだけ長期に渡って宗室部曲が安定した勢力を継いだ例は他にはない。孫瑜・孫皎・孫奐らはまさしく国家の城壁として、宗室の持つべき役割を体現して見せた人物たちだったと言えるだろう。 -孫奐伝 了-