【 9歳で太守? 】
  • (注)このテキストは2007年に一度書かれていますが、2014年のサイト消滅の際、データが紛失しています。ここにあるのは2015年に再度書いたものです。
  • 孫鄰、韋昭「呉書」によると字は公達。生まれつき鋭敏な頭脳を備え、若くして評判が良かったという。
  • さて、孫賁伝付孫鄰伝の冒頭に、「9歳で父に代わって豫章太守の職務にあたり、官位を進めて都郷侯となった。」とある。この部分は集解に注釈があり、「十の字が抜けている(19歳である)」という説と「魏晋以来、刺史や郡守が死ぬと子が継ぐという事例は多々あり、これで正しい?」という説がある。(ように見える。漢文が読めてないので自信はない。)さて、どちらが正しいのか?
  • 孫賁伝で考察したように、孫賁の死亡時期を210年と仮定すれば、当時、孫賁は40~45歳程度。長子と思われる孫鄰が9歳というのはちょっと考えにくく、「十の字が抜けている(19歳である)」というのが信憑性を持ってくる。
  • しかし、呉書外伝「蔡遺」の項で述べたように、当時の豫章太守としては顧邵が存在している。重複するので説明は「蔡遺」の項で行うが、要するに「顧邵は210年~214年の間、豫章太守だった。」と考えることができる。となると、孫賁死後、すぐに顧邵が豫章太守となったと考えると、きれいにつながる。
  • 原文のまま「孫賁死亡時、孫鄰は9歳だった」としよう。あり得ない?訳でもない。孫賁は198年に「妻子を寿春に残したまま孫策の下に帰還」している。つまり、その時点で妻子は皆殺しになっており、その後、再婚し子を得たとしたら、210年には丁度9歳くらいだ。そして孫賁が210年に死亡。集解注にあるように慣例に従い、孫賁の後を子の孫鄰が継いだ。しかし当時の混乱する豫章を9歳の子が治められる訳がない。そこで、孫鄰を豫章太守から外し顧邵を太守とした。しかし単純に解任したら、功績ある孫賁一族に報いる術がないので、位を進めて都郷侯とした・・・という仮説はどうだろうか?自分的にはコレが正解だろうと思っている。
  • さてその後、「孫鄰は20年近く豫章で過ごし、その間、反乱者を平らげ功績を挙げた」とある。太守としてではなく、都郷侯として・・と考えよう。「都郷侯」は爵位であるが食邑は存在している。ただし「都」が付くので食邑は農村ではなく、都(郡都)の中。つまり南昌の中に食邑を有しており、少数ではあるが私兵も持っている。ただし実権はない。生まれつき鋭敏で評判が良かったにも関わらず、20年間も放置された理由も、官位を失い爵位を得ているからではないかと思われる。こういう場合、よくよく忘れ去られる(史書から姿を消す)ケースが多い。孫鄰のように復活するケースの方が稀である。やはり鋭敏だったのであろう。実権はなくても腐らず、反乱鎮圧に付き従い、功績を挙げた。そして見事、復活する。
  • 孫鄰は潘濬が太常として荊州を治めていた頃、武昌に召還され繞帳督に任じられた・・とある。潘濬が太常に任じられたのは229年より後であるから、確かに20年くらい経っている。建業(皇帝孫権居住)ではなく、武昌(太子孫登居住)に召還されたということは太子・孫登付きの繞帳督(近衛兵の督)である。つまり召還したのは孫権ではなく孫登っぽい。孫登らしい人材起用だ。
  • 当時の孫鄰のエピソードとして、零陵郡重安県長の舒燮(じょしょう)が罪を犯し、潘濬が法に照らして舒燮を処刑しようとした時、それを諌めたという物がある。孫鄰は潘濬に対し
    • 舒燮は義ある行為(兄弟で互いをかばい合った)を行ったと世間で評判の人物であること。
    • こうした人物を処罰すれば、潘濬の評判も落ちること。
    という二点を挙げ、説得に成功している。まっ、ありがちなエピソードであまり面白くはないw。ただ孫登が好きそうな受け答えである。ポイントは、法を重んじる潘濬を納得させてしまうほど、孫鄰は鋭敏だったということだ。
  • その後、孫鄰は夏口・沔中の督に昇進し、威遠将軍となる。夏口は周知の通り、長江の要所。沔中は長江と漢水に挟まれた流域近辺と思われる。(沔という地名がいくつか見られる。)つまり、職務がより実戦的になっている。そもそも豫章にいた頃から反乱鎮圧に功績があったのだから、軍事経験もあり、鋭敏なだけでなく、軍事的資質も十分だったと言えるだろう。威遠将軍というと五品。雑号とはいえ将軍である。
  • 孫鄰は249年に死去した。もし210年に9歳だったとしたら48歳。19歳だったとしたら58歳。当時で言うと早死というほどでもない。孫鄰の息子たちはそれぞれしかるべき官職についたとあり、孫の孫恵は晋代になって活躍している。もし孫鄰が実権のない爵位に甘んじていたら、子孫の活躍はなかっただろう。孫賁一族・復興の祖と言って良いのではなかろうか? -孫鄰伝 了-