【 孫休の母 】
  • 王夫人は南陽の人である。孫和の母・琅邪の王夫人と区別するために、以後、南陽の王夫人と呼ぶ。
  • 琅邪の王夫人伝でも述べたように、呉では王姓の有力者は皆無であり、この南陽の王夫人も寒門の出だ。選ばれて後宮に入り、嘉禾年間に孫休を産んだ。嘉禾年間は232年~237年。孫休が死んだのは264年、享年は30歳であるから、孫休は234年に生まれている。王夫人が南陽(荊州)の人である事を考えると、孫権が武昌に本拠を置いていた時期(221年~229年)の間に荊州・武昌で孫権の妻となった可能性を考えて良いだろう。
  • 242年に孫和が皇太子になると、後宮では琅邪の王夫人とその他の妻との区別化が行われ、孫権の妻として寵愛を受けた妻妾たちは地方に出される事となった。宮殿から追い出されたという事である。非情なようだが、後宮の女官の人数が増えすぎるのは良くない事なので、もしかしたらこうした地方出向は何度か行われていた可能性もある。琅邪の王夫人の差し金という可能性もない訳ではないが、孫休は帝位についてからも、孫和一家には結構同情的であり、琅邪の王夫人の差し金で南陽の王夫人が後宮から追い出されたような感じはあまり受けない。母親の地方出向を孫休が気にしていた様子も見えないので、単に後宮にいなかったというだけなのかもしれない。そもそも孫休は普通に考えれば、諸子として地方王となるはずで、孫休の一族が中央府にいるのはあまり良くない事なのだ。
  • 南陽の王夫人は公安に出向し、そこで死んだ。嘆き悲しんで・・・という記述もないので普通に死んだのだろう。どうもこの母親も孫休同様、他の孫権夫人たちとはちと毛色が異なっている。あまり地位や権力に固執する楊子が見えず、受動的な印象だ。
  • なんともタナボタ的だが、南陽の王夫人は死後、皇后となった。息子の孫休が帝位についたからだ。死んだ本人が一番びっくりしているのではないだろうか?孫和と孫覇が共倒れし、その後を継いだ孫亮が廃嫡され、もう彼しか残っていません的に孫休が皇帝となる事なぞ、想像しようにもできるはずがない。南陽の王夫人には敬懐皇后の追号が贈られた。
       -敬い懐かしむ-
    南陽の王夫人が後宮を追われた242年の時、孫休は8歳である。孫休に取って母の面影は幼少の頃に失われた。そんな母親への思いがこの追号に込められているようである。 -王夫人伝(南陽) 了-