【 愛ある母 】
- 第一話では可姫の事に触れずに終わったので今回から。
- 可姫の父は可遂と言う。別に豪族という訳ではなく、騎兵をしていた。孫権が軍営を閲覧していた時、可姫はそれを見物していたが、孫権が可姫を気に入り後宮に入れ孫和の妻として賜った。そして孫和と可姫の間に生まれた子が孫晧である。孫晧が生まれると孫権は大変喜んで彭祖という名を付けたと言う。
- 孫和は242年に太子となったが、二宮の変の結果、250年には皇太子の座を剥奪され、252年には南陽王として長沙に移住させられた。さらに孫亮の代になり孫峻が実権を握るようになると、孫和は新都郡に移住させられた上、自殺を命じられる。孫和は正室の張夫人と共に自害するが、可姫は「誰も彼も死んでしまったら誰が父なし子を養うというのでしょう?」と言い、生き残って孫晧と三人の弟を育てたと言う。極悪非道の孫晧の母というだけで、どこか問題のある母ではなかったか?という疑念を抱かれがちではあるが、可姫伝を読む限り、そのような形跡は見られない。むしろ人間愛にあふれた人物のように思える。まあ、たぶんに孫晧との関係で悪くは書けないという部分はあるが。
- (注)孫和には孫晧を含めて孫徳・孫謙・孫俊と四人の男子がいた。そのうち孫謙は反乱を起こし死罪。孫俊も孫晧に殺されている。つまり、孫晧以外の三人の孫和の子は可姫の子ではないと思われる。もし可姫の子であるなら、肉親の情に厚い孫晧が無碍に殺害するとは思いにくい。つまり、可姫は腹違いの子も孫晧同様に養った訳だ。
- 孫晧が即位すると、可姫は昭献皇后、升平宮と呼ばれ、さらに一ヶ月後には太后となった。だが、可姫が太后となってから驕り高ぶったという様子は見られない。孫晧夫人滕夫人伝を読むと、孫晧の寵愛を失い生命の危機すらあった滕夫人に対し、可姫は口添えをして滕夫人が排斥されるのを回避させたと言う。そうした可姫の温情に対して滕夫人も可姫への拝礼を欠かさず行う事で答えた。こうした所を見ても、子の悪行とは裏腹に、母は思いやりの心にあふれる優しい人物であったと言えるだろう。逆に言えば、そうした優しい母であったからこそ、孫晧は肉親への情が深くなったのだと言える。例えそれが異常なほどの情だったとしても。
- さて、前回も述べたが、太后となった可姫がその後どうなったか?については全く記述がない。どうも孫晧が皇帝である間も可姫は在命のようだし、孫晧が晋に降伏した時に孫晧に従い、洛陽に移住したのではなかろうか?と思う。▲ -可姫伝 了-