【 可姫は皇妃か? 】
- 可姫は丹陽郡句容の人である。孫和の妻であり孫晧の母である。
- さて、可姫伝は呉書皇妃伝の中で異色の人物伝と言えるだろう。三国雑談の【 孫策の女性関係 】でも述べたが、可姫は孫和の妻の一人であり、本来、皇后の伝であるはずの皇妃伝に入る人物ではない。確かに孫晧によって死後、太后に諡されており、そういう意味で言うなら皇妃伝に入って良いのであるが、であるならば、その対として孫和の伝も孫呉当主伝に入ってしかるべきである。しかし孫和の伝はあくまでも孫権の一子として呉主五子伝第十四に列記されており、あくまでも皇帝にならなかった孫権の子の扱い。なら可姫伝を列伝として載せるのは筋が通らないのである。
- このパラドックスはどこから生じたのか?
まずは魯粛伝12【 荊州問題へのプロローグ 】でも述べた、陳寿は韋曜の呉書を丸写ししたのではないか?という部分がある。つまり皇妃伝に関しては、陳寿は一切の編纂をせず丸写し(というか要約)した可能性がある。でなければ可姫伝が列伝として記載される道理がない。となると、韋曜の呉書の段階ですでにこのパラドックスは存在していたと考える事ができる。孫和伝はあくまでも孫権の一子として扱う一方で、可姫伝は孫家の皇妃の一人として記載されていたのだ。では韋曜の呉書はなぜこのパラドックスを内包してしまったのか? - 呉書韋曜伝を読むと、ある程度の呉書の成り立ちを知る事ができる。呉の史書として編纂された呉書は、孫権期に始まり、孫亮の時代に韋曜・華覈・薛瑩などが呉の史書を編纂するように命じられた。後に孫晧の時代になり、韋曜は左国史、つまり史書の編纂係として位置づけられ、華覈と共に呉書の編纂に精力を注いでいた。だが、孫和の伝を皇帝の伝として位置づけるか否か?という部分で孫晧と意見が対立するようになり、韋曜は左国史の任を降りたいと願い出ている。つまり、呉書の編纂を辞めたいと言い出したのだ。その後、韋曜は孫晧の譴責を受け誅殺されている。
- また同伝の中にある華覈の上奏文にも【呉書は目鼻はついている物の、叙や賛はまだ作られていない】、【呉書は多くの史書の仲間に加わろうとしている】などとあり、孫晧の末年にあって、呉書が未完成であった事が伺える。しかも韋曜も華覈も共に誅殺されている事、滕胤伝のぶつ切れ状態、孫邵など伝を立てられてしかるべき人物の伝が欠損している点、孫和伝と可姫伝の整合性のなさなどを考えると、呉末期の混乱状態の中、呉書編纂の仕事も韋曜と華覈という二大巨頭を失い、混乱状態のまま終焉を迎えたのではないか?と推察する事ができるのである。
- (注)呉の初代丞相である孫邵の伝がないのは、孫邵は張温と仲が悪く、韋曜は張温の派閥に属していたため孫邵の伝を書かなかったためだ・・・と孫権伝注の志林にある。だが、張温と韋曜が同じ呉郡の豪族だからと言って、時の皇帝の意思を道理が通らんとして命をかけて抵抗してみせた韋曜が、そんなつまらん理由で伝を書かないなんてあり得るのか?という気がしないでもない。しかも張温と韋曜では歳が離れすぎている。都合が良い事に志林は注としての信憑性は高い方ではないので、別の視点で考えてみたい。これはなんちゅうか不遜極まりない話ではあるのだが、物書きという意味では孫ぽこも同じなので(爆)、たぶん昔も今もその辺の心境というのは大差ないと思うのだ。どういう事かというと、【あまり乗り気のしない人の伝は後回し(核爆)】という事なんじゃなかろうかとw。韋曜は呉郡の豪族だから同じ呉郡系の豪族の伝はすらすらと書ける。だが、そうではない人の伝は後回しにする。別に書かないと言っている訳じゃないのだ。それくらいの勘定は物書きの自由だろう。ところが、孫和の件で孫晧と折り合いがつかなくなり、韋曜は誅殺。つまり物書きが完結しないうちに韋曜は意思半ばで倒れている訳である。つまり韋曜は孫邵伝を書かないつもりだったのではなく、いずれ書く気だったけど後回しにしていたらいつの間にか誅殺されていた・・・んではなかろうか?同様の事が滕胤伝にも言えるのではなかろうか?
- とすれば、可姫伝が皇妃伝に記載された理由としては二つほど考えられる。一つは、韋曜は、孫和を皇帝として扱う事に対しては抵抗を見せた物の、可姫伝については「皇帝の母であるからオッケー」という解釈を行ったのではないか?という事だ。そもそも孫権からして皇后問題についてはルーズなので、この辺りは先代に従ってルーズで良いと(汗。呉夫人伝も孫堅の妻だからというより孫権の母だから・・という解釈ができない事もない。ただ、筋が通らんとして孫和を皇帝として扱わなかった韋曜にしてはどうも押しが弱い印象を受けないでもない。
- もう一つは韋曜死後、可姫伝が付け加えられた可能性だ。と言うのも可姫伝、よくよく見れば滕胤伝同様にぶつ切れ状態で終わっているのだ。伝というのはその人物の生まれから死去までを書き綴るのが普通だが、可姫伝は皇太后となった所までは書かれている物の、その後どこで死んだという記述がない。つまり誰かが可姫伝を韋曜誅殺後に書き始めた物の、呉が滅亡してしまい途中で終わってしまう。んでもって晋代に書かれた陳寿の三国志では可姫伝を完結させなくてはならない理由がないのでそのまんまぶつ切れで載せた・・・・という可能性も考えられるのである。▼
- (注)筑摩版の注にあるように、滕胤伝のぶつ切れ状態については、韋曜の呉書の段階ではなかった伝を陳寿が構成したのではないか?という解釈も成り立つ。つまりそもそも諸葛恪伝・滕胤伝・孫峻伝・孫綝伝は一緒の伝であったのを陳寿が別々に一人ずつの伝として構成した・・という可能性だ。だが、以前むじんさんとも話題になった、天子になったつもり論、あるいは可姫伝もぶつ切れである・・と言った点を考えると、どうも陳寿は列伝に関してはほとんどマンマの状態で呉書を簡素化したのではないか?つまり、そもそもの元となった呉書自体が未完成だったのでは?と思える。これについては三国雑談のネタにしたいので後述します