【 孫権が最も愛した女性 】
- 歩夫人は孫権が最も愛した女性である。歩夫人は嫉妬を知らぬ性格で、度々、後宮の女性たちの後ろ盾となった。容貌が美しかった事もさる事ながら、性格的にも彼女は大変優れた女性だったのである。それともう一つ言えるのは、歩夫人以前に孫権の妻となった謝夫人・徐夫人は、その婚姻に政略的要素が見え隠れし、決して孫権自身が望んだ事ではなかったという事もあるかもしれない。歩夫人は孫権自身が自分で選んだ女性なのである。そうした事もあって、孫権は皇帝に即位すると歩夫人を皇后にしようとする。
- 普通の家庭であるならば、最も愛する女性を正室としてほぼ問題は起きない。だが、孫権の場合はその存在が【国家】だった。孫権は孫登を皇太子に立てたのだから、皇后はその母親代わりとなった徐夫人がなるべきであった。これは国家としての筋を示すという意味なのである。当然の事ながら、孫登が皇太子になると、群臣は徐夫人を皇后にするようにとこぞって進言をする。天を祀る天子(皇帝)の妻(皇后)の立場が筋の通らない物であってはならないのだ。孫権も歩夫人を皇后にしたいというのは孫権の個人的感情に過ぎず、正論としては徐夫人を皇后にすべきという意見は理解できた。理解できていたからこそ、孫権は歩夫人を正式に皇后にする事はしなかった。だが、孫権は徐夫人を皇后にする事もしなかったのである。結局、十余年の間、正式な皇后は立てられないままだったのだ。
- この問題をここでは【皇后問題】としておく。これがナアナアのまま解決してしまった事が二宮の変の遠因となっているからだ。孫権は皇后問題を放置した。放置した結果、孫権が望む形で事態が推移してしまったのである。歩夫人は正式に皇后に立てられないまま、宮中では皆が歩夫人を皇后と呼び、親戚が歩夫人を呼ぶ場合も中宮(皇后の事)と呼んだ。そして238年に歩夫人が逝去すると、群臣たちもが歩夫人を正式に皇后に立てるように進言したのである。
- これは皇后問題が皇太子問題に比べ、比較的、孫権個人の問題として片づいてしまう事に原因がある。よって皇太子問題と違い、群臣たちもこの件を根掘り葉掘り、諫言する事はなかった。皇帝が望むなら、まあ良いか・・この程度で済んでしまったのだ。この皇后問題を国家的問題であるとして、最後まで筋を通したのは当事者の一人である孫登しかいない。そして、この問題を放置してなんとなくうまく行ってしまった事が、後の二宮の変における孫権の態度に影響してくる。(孫権伝35話【 二宮の変 】参照。)孫権はこの皇太子問題までも放置してしまったのである。
- 孫権は名君であると言って良い。誰がなんと言おうと名君である。孫権が君主となってから、孫呉は何度も危機を乗り越え、領土も拡大しているのだから。だが、孫権は明らかに皇后・皇太子選択では問題児であった。国家を体現するという意識が薄いのである。これは、そもそも孫権が成長していった当時の孫家の感覚自体が一般庶民的感覚に近かった事にも要因がある。孫権の子には、実は母が誰だか分からない子が多い。孫登・孫覇・孫慮。なんと七子のうち三人が母親不明。孫登に関しては、母は下賤の庶民に過ぎない事が明記されており、このような状態は皇帝として異常であるとしか言いようがない。つまり、孫権自身が下賤の身分の者と契りを結ぶ事に全く抵抗がないのである。孫権の感覚が庶民的であったという点は、宮殿や生活スタイルを過度に豪勢な物にしようとしなかったなど、美点の一つではあるが、事が皇后・皇太子問題となると、これは美点どころが汚点となった。孫権は国家としての筋云々ではなく、自分が最も愛し敬う者を皇后・皇太子にしようとしたのである。孫登を皇太子として期待する一方で皇后は歩夫人。歩夫人・孫登が早世すると、孫和・孫覇の二人を比べ、皇后は立てずじまい。孫和・孫覇が二宮の変によって失脚すると、今度は最も若年の孫亮を皇太子に立てる。結局、皇后・皇太子が筋の通った形で統一されたのは孫亮-潘夫人の一つだけである。
- この皇后問題が、後の二宮の変の遠因となっているのには、もう一つ理由がある。歩夫人には二人の女子がいた。孫魯班と孫魯育である。魯育の方は良い。問題は魯班である。彼女が二宮の変に始まる、孫呉混乱期で蠢動した事は孫権伝・孫亮伝で述べたので重複はさけるが、結局、皇后問題を放置した事が魯班の蠢動を生む遠因なのである。
- だが、皇后問題が呉衰退の遠因になっている事と、歩夫人の評価とは別である。彼女は群臣たちすら、筋を通すのを忘れたくなるほど、優れた女性であった。孫権は歩夫人死後、彼女に皇后の位を追贈する。その書にはこうある。
- 「后よ。(歩夫人の事。)
貴方は私が天命を遂行するための補佐役であり、二人して天地の秩序に慎み従ってきた。貴方は日夜、敬慮に勤め、主婦として後宮を正しく修め、礼を違える事なく、心は広く思いやりが深く、貞淑の徳をしっかりと身につけていた。臣下も民衆も遠い者も近い者も皆、貴方に心寄せられていたのだ。
私は天下がまだ統一されていない事から皇后の位を授ける事をしなかったのだが、貴方は思いがけなく、早世されてしまった。私は貴方を皇后にしなかった事を悔やむ。今、丞相の顧雍を遣わし、皇后の位をお授けする。もし皇后の魂に霊妙な働きがあるなら、この事を喜んでくれるだろう。嗚呼、哀しい事だ。」 - いかに、孫権が歩夫人を愛し敬っていたか。その事がよく分かる。歩夫人は蒋陵にある孫権の墓に一緒に埋葬されている。▲ -歩夫人伝 了-