【 寒門・歩家 】
- 歩夫人は徐州・臨淮郡・淮陰の人である。
- 歩夫人に限らず、徐州から江東に逃れた人は多い。もちろん士大夫だけが逃れたはずがなく、孫策期には多くの民・士大夫・豪族が江東に逃れてきている。徐州は当時、相当に混乱していたようだ。歩家の場合は、徐州から直接、江東に来たのではなく、一端、廬江に移住。199年に孫策が廬江の劉勳を破った際に江東に移住している。
- 歩家はどういう家だったのだろうか?
歩隲伝注呉書によると、歩家は淮陰侯の子孫である。先祖に将軍となった者がいて、功績により淮陰侯に封じられている。このような場合、侯とは言っても実際には実権はなく、歩隲の頃にはすでに爵位はなかったと思われる。つまり、ある程度の名声はあるが豪族としての基盤はなく、寒門であったと言えるだろう。江東に移住してからも、貧乏生活を送る歩隲の様子が描かれており、歩夫人もまた同様の苦しい生活を送っていたと思われる。 - 問題は、その寒門・歩家がどうして孫呉政権で重要な地位を占める豪族にまで発展したか?である。可能性は二つある。
- 孫権が歩夫人を見初めた事により、外戚として発展した。
- 歩隲が先に才幹を発揮。昇進していく中で歩家との協力関係構築のために歩家との婚姻が結ばれた。
- 歩夫人伝は簡素すぎてヒントらしい物が見あたらない。唯一ヒントらしいのは、歩夫人伝が徐夫人の後に記されているという事。つまり歩夫人が孫権の妻となったのは、徐夫人が孫権の妻となった後の事である。徐夫人が妻となったのは200年~208年の間であるから、歩夫人が妻となったのは208年以降の事ではないか?と思われる。
- 次に歩隲伝を見ると、彼はまず、孫権が討虜将軍であった期間(200年~208年)に将軍府の主記(記録係。属官。)となり、続いて海塩県令、一端、罷免された後に、車騎将軍府の東曹掾となっている。東曹掾と言うと、将軍府の上級文武官の人事を司る役職であり、どう考えても海塩県令→東曹掾の間が一足飛び過ぎる。孫権が車騎将軍代行となったのは、赤壁後の209年。この近辺で歩隲が一端罷免された後に、一足飛びで官職が上がっている事、そして歩夫人伝の順番から考えると・・・・おそらく、歩夫人が孫権の妻となったのは、208~209年の事ではないか?と思われる。つまり、歩家は歩夫人が孫権の妻となった事により、有力豪族になったと言って良い。つまり外戚である。それまでは歩隲は無数にある県令の一人に過ぎない。しかも一度罷免されている。
- 外戚というと、どうも悪いイメージが強い。これは後漢末期が宦官と外戚によって壟断された時代であった事が関係しており、何進などの例もあって、外戚=悪という図式すらできあがっている気もする。だが、外戚というのは親族の一種であり、支配者にとっても最も信頼できる配下の一つなのである。縁もゆかりもない有力者に巨大な権限を与えた場合、常に造反・君臣逆転の危険性がつきまとう。それよりは外戚に権限を持たせるのが安全であり、何進などが大将軍として重用されたのも当然なのだ。だが孫権の場合、同じ外戚である呉家・徐家・王家などの扱いは極めて冷遇に近く、こうした外戚が力を持たないように配慮した跡が見られる。これは呉家・徐家などはすでに江東に土地的基盤を持つ豪族であり、有力な部曲を従えていたという点がある。あまり強力な基盤を与えると、部曲(私兵)がさらに強力となってしまい、孫家の君主権まで脅かしかねなかったからである。
- 一方、歩家はどうか?歩夫人が孫権の妻となり、歩家が孫家の外戚となった後、歩隲はガンガン頭角を現し、最後は丞相まで上り詰める訳だ。これは他の孫権夫人の外戚の例を見ても極めて異例と言える。一つには歩隲自身の才覚に寄る部分が大きいのであるが、もう一つは、歩家の場合は江東に土地的基盤がなかった、つまり豪族として力がなかったという点が大きいだろう。つまり、ある程度権限を与えてもさほど問題ではなかったのである。あまり突っ込みすぎると歩隲伝で書くことが無くなるのでこの辺で(汗)。しかし、一つだけはっきりしているのは、孫権が歩夫人を妻に迎えたのは、政略的要素はほとんどなく、単純に歩夫人を見初めたからであるという事である。▼