【 精鋭部隊長 】
  • 孫皎、字は叔朗。孫静の三男に当たる。
  • まずは彼の生年から探っていこう。ヒントになりそうなのが、後の記述にある孫権の手紙。その中に孫皎と甘寧が喧嘩?をしていた時に孫皎が三十歳であった事が書かれている。この甘寧と孫皎の喧嘩?は、219年の関羽挟撃以前の出来事。さらに孫権の手紙の中に、甘寧が(孫皎の指揮下から離れて)呂蒙の指揮下に入りたい・・・と言っている事が書かれているので、呂蒙が陸口司令官として赴任した217年以降の事と断定できる。(孫皎と甘寧・呂蒙の駐屯地が比較的近い時期でなれけば異動は不可能。)つまり、孫皎と甘寧が喧嘩していた頃は217年から219年の間と、かなり絞り込む事ができ、そこから逆算すると、孫皎は188年前後の生まれではないか?と推測する事ができる。兄の孫瑜が生まれたのが176年であるから、孫瑜と孫皎は10歳以上歳が離れていた事になる。意外に歳の離れた兄弟だったのだ。これなら孫瑜が死去した後、孫瑜の部曲が親子相続されず、兄弟相続された理由も頷ける。
    • (注)分かりにくい。ちょっと補足が必要。なぜ「兄弟相続が頷ける」のか?というと、まず当時の孫家親族の台所事情から考えて、孫皎ほどの人材を成人後も放置することはあり得ない。つまり、孫瑜とさほど年が離れていないなら、すでに何らかの官位を得て活躍しているはず(実際、相続前に官位を得ている)というのが一点。
      もう一つが孫瑜は39歳で死亡しているので、第一子が男子だとして、おそらく当時二十代前半。下手をすれば未成年。そういう状況で孫家親族最大部曲を束ねさせるのは、かなり不安。それなら当時20代後半と思われ、評判の良い孫皎に兄弟相続させるのが安心。そういう意味で「頷ける」という意味。
  • 彼の最初の官位は護軍校尉。孫瑜の最初の官位が恭義校尉であった事を考えると、ほぼ同格の扱いだろう。二千余人の軍を預かったとある。護軍校尉に任じられたのが、孫皎が成人したからだとすれば、任命時期は203年前後。兄・孫瑜が丹陽太守となったのが204年であるから、ほぼそれと前後している。孫皎は濡須で曹操としばしば戦ったとあるので、当時の駐屯地は丹陽のいずれかの地。つまり、兄・孫瑜預かりの部隊長だったのではないか?と思われる。
  • 合肥・濡須近辺で曹操と孫権が激戦を繰り広げたのは212年~217年にかけての事だ。その頃に孫皎は、曹操の濡須侵攻を防ぎ止め、孫皎の部隊は精鋭である・・・との評判を取った。この濡須防衛戦での孫皎の活躍は相当目覚ましかったようで、その後、孫皎は都護・征虜将軍に任じられる。征虜将軍というのは蜀では張飛・魏では曹植などが任じられており、呉では勅でもって朝廷直々に孫賁が任じられている。つまり、征虜将軍というのは上位将軍職で、兄・孫瑜が任命された奮威将軍より格的には上である。それに都護が付く。都護というのは、諸軍の統括者に与えられる称号であるから、単なる一将軍という訳ではなく、大変な重責を担う事になる。ちなみにこの頃の孫皎は二十代後半。これは明らかに兄・孫瑜を上回っており、この任命が孫瑜生前の事とはちと信じがたいのだが、孫皎伝では
    • 孫皎が都護・征虜将軍に任命される。
    • 程普が死去し、替わって孫皎が夏口司令官となる。
    • 黄蓋と孫瑜が死去し、二人の部曲も孫皎が併せて指揮を執る事となる。
    という時系列で記述されていている。この時系列を信じるなら、孫瑜生前に兄より上位の将軍職についた事になる。いずれにしても相当な期待のされようである。また黄蓋・孫瑜の部曲併呑後の孫皎の持つ部曲の数は、相当数になっている。孫瑜伝には孫瑜の部曲は一万を超えるとあるし、それに元から孫皎が持っていた部曲と黄蓋の部曲を合わせると、二万弱くらいにはなる。当時、これだけの部曲を携えていた人は呉ではほとんどいなかったはずだ。
  • 都護であるからには諸軍を統括する駐屯地が必要であるから、おそらく都護の任命は程普が死去した年に行われている。つまり夏口総司令官として都護になった訳である。だが残念な事に程普の死亡時期が特定できない。210年以降である事は特定できるのだがそれ以降でいつ死んだのか?は不明である。また、黄蓋についてもその死亡時期に謎が多い。黄蓋伝をマンマ読むと219年死去という事になるんだが、これはあり得ないような気がする。詳しくは黄蓋伝で述べるが、おそらく215年から数年の間に死んでいるはずだ。そう考えれば孫皎伝において孫瑜と黄蓋の死去が並列で書かれているのも分かる。となると、程普が死去し孫皎が夏口司令官として赴任したのは215年よりちょっと前の214年か213年頃ではないか?と思われる。
  • 夏口に赴任した孫皎には、沙羨・雲杜・南新市・竟陵が奉邑として下賜されている。沙羨は夏口にほど近い場所にある。孫策の黄祖討伐の時に黄祖が布陣した場所。しかし竟陵はどちらかというと江陵に近く、漢水沿い南岸。南郡は劉備の支配下にあったので、かなり境界線ギリギリの場所だ。まあ当時は劉備とは友好関係にあったのだから、これはまだいいだろう。ところが雲杜・南新市になると、漢水より北。結構、南陽郡寄り。確かに区分的には江夏郡ではあるが、こんな所まで孫呉の支配権が確立していたとは思いがたく、むしろ雲杜・南新市辺りの支配権を巡って魏と勢力争いをしていたと見た方が良いだろう。孫皎はそれぞれの地に長官を任命して経営に当たらせた。
    • (注)江夏郡について。漢の区分で言うと、江夏郡は長江北岸と南岸の両方にまたがっている。で、大まかに言うと三国時代は長江南岸を呉が、北岸を魏が支配していた。で、地図を見ると南岸の呉領・江夏郡の郡都は武昌という事になっているが、これは孫権が武昌に遷都を行ってからの事だと思われる。それ以前は黄祖が夏口に駐屯して以来、赤壁の戦い前に劉備・周瑜が合流地点に選んだのも夏口、孫皎が駐屯したのも夏口。要するに当時は郡都代理のような感じだった。コーカのカコー、カコーのコーカ、紛らわしいったらありゃしない。(汗)
  • 孫皎は孫瑜同様、北方移住系名士層を重用した。一番親しい交友があったのが徐州出身の諸葛瑾。そして旗本にも北方系名士が多い。孫皎は、廬江郡出身の劉靖に情勢判断を、江夏郡出身の李允に事務を、広陵出身の呉碩、河南郡出身の張梁には軍事を任せて信任した。これらの旗本たちがいずれも徐州・荊北出身であるのは偶然ではあるまい。続く孫皎のエビソードが、孫皎の経営感をよく表している。
    • ある時、偵察部隊が魏軍にいた美女を捕まえて、孫皎に差し出した。孫皎は女の衣服を新しい物にして送り返すと、「今、誅罰を加えようとしているのは曹氏であり、民衆には何の罪もない。これより後、このような事があってはならない。」と命令を下した。
    これとよく似たエピソードをどっかで聞いた覚えがある。時代が進んで孫晧期。陸抗と羊祜が似たような事をやっている。陸抗と羊祜が長江を挟んで睨み合っていた間、余った食料が置かれたままになっていても奪い合うこともなく、馬や牛が敵国に逃げても相手国に申告して取りに行けた。陸抗が病気になったと聞くと、羊祜は薬を送り、陸抗は疑う事なくこれを飲んだ。これは単なる友情などではなく、壮絶なる徳の示し合いである。人口問題が盛衰を分ける最重要課題である以上、少しでも多くの住民に自分の側に来てもらわなくては成らない。そもそも呉は戦乱をさけて北方の名士・住民が長江南岸に大挙移住した事から発展してきた。孫皎が都護として夏口に赴任して以来、おそらく最も重視したのが、この人口問題であり、北方系名士層をいかに孫皎側につけるか?である。そうする事によって江夏における孫呉の優位を確立する事ができるのだ。そのために、孫皎は財貨を惜しまず人々(名士層・住民)に施し与え、(名士層と)広く交友を結んだ。その結果、淮水~長江流域の一帯から多くの人が孫皎の元に流れたのである。優れた領土経営感覚を持っていたと言えるだろう。