【 部曲一万数余人 】
  • 孫瑜、字は仲異。孫静の次男に当たる。
  • 彼が史書に登場するのは、孫権期になってからである。それ以前は孫静と共に富春にいたと思われ、おそらく孫静の隠遁と前後して、表舞台に登場している。
  • 孫瑜の最初の官位は恭義校尉である。204年に丹陽太守となる以前の話であるので、タイミングとしては孫権が孫策の後を継ぎ、討虜将軍に任じられた200年の事だろう。校尉であるので、兵を預かったと言っても大人数ではない。次の孫皎伝には、孫皎は校尉として二千数余人を預かったとあり、孫瑜の場合も同程度弱と思われる。孫静伝でも書いたが、当時、孫瑜の兄である孫暠が反乱未遂事件を起こして表舞台から退場、その煽りを受けてか孫静も官位を退いて隠遁。つまり、孫静一族の名代は孫瑜であった。すでに父の孫静も兄の孫暠も中郎将であった事を考えると、ランクダウンという感もあるが、致し方ない所だろう。むしろ、兄の反乱未遂事件を考えれば、よく何のお咎めもなかったな・・・という感すらある。
  • 孫瑜伝には孫瑜の幕僚には江西(寿春・合肥)出身者が多かったと書かれている。江西出身者という事は、北方移住系名士という事であるが、これは孫瑜の幕僚のみならず、当時の孫呉政権の幕僚の中心が江西出身者であったという資料と見た方が良いだろう。周瑜・魯粛・呂範ら、孫呉政権初期を支えた大物たちにも江西・徐州近辺の出身者は多い。揚州豪族にパワーバランスがシフトしていったのはもう少し後になってからの話である。つまり当時の孫呉政権において、こうした北方移住系名士たちから、いかに支持を得るかというのは重要な意味を持っていたのであるが、孫瑜はその点を実によく理解し、彼らを丁重に持てなしていた。
  • こうした統治能力を見込まれてか、204年、孫瑜は孫翊の後を継いで丹陽太守となる。丹陽は孫呉政権のお膝元であり、孫呉政権初期において、最も重要な郡の一つであった。というより、江夏・江陵が手に入るまでは最重要の郡であったと言って良い。それ以前の太守を見ても、呉景→徐琨→呉景→孫翊・・・といずれも、孫家本流と直接血縁関係のある人物が太守を務めており、しかも、呉景・徐琨といった外戚から、孫家本流の直接支配へとシフトチェンジしていた。
  • ところが、203年にそのお膝元の丹陽で、孫河と孫翊が殺されるという大事件が発生する。これがなぜ大事件なのか?は、残された孫家宗室のメンバーを見れば一目瞭然であろう。当時、孫家宗室の中心は、孫堅本流の孫翊と孫匡、孫堅の兄の家系である孫賁と孫輔、愈家から孫家に復縁した孫河、それに隠遁した孫静に替わって名代となった孫瑜の六名である。孫朗もいない訳ではないが、彼は側室の子であり重席にはつけない。そのうち、孫賁と孫輔はすでに豫章・廬陵の太守であり、残る四人のうち孫匡は二十歳で死去している。つまり残っている宗室は孫河・孫翊・孫瑜の三名だけであり、その三名のうち二名が同じ事件において殺害されてしまったのである。つまり、丹陽を孫家宗室で支配するには、孫瑜しか候補がいない状態だったのだ。この身内の少なさは、孫家自体が成り上がりで、広い血縁を持たない事に由来している。日本で言うと、成り上がりの秀吉の身内が少なく、そのやりくりに苦労したのと似ている。
  • こうして見ると孫瑜の丹陽太守就任はタナボタ的要素もなきにしもあらずではあるが、彼は実に巧みに丹陽を統治していったと思われる。というのも、孫瑜は就任して二年経たないうちに、部曲の兵力を一万余人にまで増強し、恭義校尉から綏遠将軍へと昇進しているのである。当時の孫呉政権において一万数余人という兵力は馬鹿にできない。なにしろ赤壁の兵力が三万、周瑜死亡時の魯粛に引き継がれた部曲が四千という時代である。魯粛が漢昌太守となると魯粛の部曲は一万を超えるようになった・・・という事例があるが、それに匹敵する事例であると言えるだろう。では、孫瑜が短期間に部曲を増強できた理由は一体何であるのか?
  • 孫瑜の丹陽太守就任以前の丹陽の状況から分析してみよう。丹陽太守というと呉景という印象が強いが、彼の死去に伴い、203年に孫権の弟の孫翊が二十歳で丹陽太守となる。呉景は思いやりのある統治をして丹楊の民に慕われていた・・・とあるが、孫翊がどうだろうか?彼の伝には孫翊は孫策に似た気風を持っていたとあり、丹陽太守となって一年未満で側近の辺鴻に殺害されている。その理由は嬀覧・戴員(おそらく北方移住系名士。)との確執にある。そういう点を考えると、孫翊は血の気が多い所があり、郡の統治者としては不向きだったようにも思える。いずれにしても、この事件の煽りを受けて孫河まで殺害されてしまうのであるから、丹陽はかなりの混乱状態であった。その状態で孫瑜が丹陽太守に就任する。
  • 丹陽太守となった孫瑜は孫翊とはタイプの違う統治者だった。なにしろ彼は、軍中にあっても書物を手放さず、学問に勤しんだという人物であり、教養人であった。学問に通じていた済陰(兗州)出身の馬普を丁重に遇し、配下の者数百人に命じて彼の元で学問を受けさせ、学官を設置して自らも講義に臨席したという人である。兎角、武辺者の多い孫呉の武将たちの中で異彩を放つ人物と言える。こうした教養に加え、前述したように、孫瑜は北方移住系名士を丁重に持てなし、その支持を得ていた。つまり、名士・豪族層への受けは非常に良い人物だったのだ。
  • だが、孫瑜の部曲が短期間に増強した理由はそれだけでは弱い。なにしろ二年弱の期間で一万数余人である。これは別の側面もあるだろう。丹陽と言えば?そう、山越である。古来から丹陽は強兵を産出する土地として定評があった。以前、どこかで書いた覚えがあるが、その理由はおそらく傭兵として丹陽の山越が活躍していたからだと思われる。孫呉政権では常套手段なのであるが、そうした山越を討伐する過程において、捕虜となった山越賊を部曲に編入して兵力を補充していく。同様の事を孫瑜もかなりやっていたのではないか?と思われる節があるのだ。
  • と言うのは、206年、孫瑜は周瑜と共に、麻と保の砦の討伐というのを行っている。麻と保というのは江夏にある山越(異民族)の拠点。これは孫権伝に、206年に黄祖を討伐し民衆を捕虜にして帰還した・・・と書かれている部分の事。つまり、江夏において山越賊を叩いて捕虜とし、揚州に連れ帰った。軍事司令官として転戦している周瑜は兎も角、孫瑜を丹陽からわざわざ江夏まで遠征させた理由は、おそらく、その保有兵力の大きさと経験を期待しての事ではないか?と推測する事ができる。つまり、孫瑜には軍事経験があり、それは丹陽において山越を討伐する過程においてしかあり得ない。また、校尉に過ぎなかった孫瑜が一万数余名の部曲を保有するに至るためには、丹陽において山越を討伐し部曲に編入したからだ・・・と考えるのが最も自然であり得る解答だろうと思う。