【 早すぎる死 】
- 孫皎が都護として夏口に赴任した直後の215年には何があったか?というと、荊州を巡って第一次呉蜀荊州争奪戦が行われた年である。(詳細は魯粛伝17【 第一次呉蜀荊州争奪戦 】参照。)この際、孫皎は呂蒙と共に荊州南部四郡攻略の主力として参加。零陵攻略後は押さえとして零陵に留まっている。この第一次呉蜀荊州争奪戦では呉が長沙・桂陽・零陵を占領した後、反乱が起きているのだが、それらはいずれも長沙郡で起きているので、孫皎が押さえとして残った零陵では孫皎の押さえがきちんと機能していたと言える。ちと不思議なのは孫皎と呂蒙の関係である。二人は濡須戦役、荊州戦役で行軍を共にしている事が多く、一種のライバル関係にある。で、孫権が荊州南部四郡の攻略司令官に選んだのは呂蒙であるが、呂蒙伝を読むと、この時の呂蒙の官位は偏将軍・廬江太守でしかない。孫皎の方が明らかに上位である。孫権が最も信任していたのが呂蒙だったからという事になるが、孫皎が宗室であり上位将軍職にある事を考えると、少し奇妙な印象を受ける。
- この奇妙な印象は、その後に記述されている孫皎と甘寧の大喧嘩?のエピソードにも現れてくる。要約すると、ちょっとした事から孫皎と甘寧が口論となり、その件を孫権が諭している・・・というエピソードなのだが、そこに出てくる言葉がちょっと面白い。
- 甘寧曰く・・・
- 「臣下も公子も同列のはず・・・」
- 「世間の習わしに従って身を屈するなど絶対に出来ない。」
- 「(孫皎に対して)勝手気ままな行動をしてはならない。」
- 「甘寧は(孫皎の元を離れて)呂蒙の指揮下に入りたいと言っている。」
- 「過ちを反省し、深く自らを責めるべき。」
- 甘寧の性格なんて孫権もよーく知っている(汗)。手紙の中にも「あの人は繊細さを欠いて向こうっ気が強く、人の気持ちを損ねる事が多い。」と、孫権自身が書いているくらいなんだからw
にも関わらず、孫権は孫皎を一方的に責め陳謝せよ・・と言っている。甘寧も甘寧だ。臣下と公子は同列だ・・・なんてほざいておるが、甘寧自身も世間の習わしとしては自分が陳謝するのが当たり前だと分かっている。にも関わらず、この一件の結果は、甘寧の一人勝ち?だ。なんなんだ?この立場の弱さは? - 結局の所、孫権にとって呂蒙・甘寧・周泰・潘璋といった面々は、まさに自分を支える虎の子なのである。優秀な軍人だから・・・という点もあるが、それだけではない。孫権は自分の権力基盤を強化するためにも彼ら、土地的基盤を持たない軍人たちは大切にした。孫権が部下のために涙を流したとか、褒め称えたなんてのはほとんどの場合が、たたき上げあるいは流れ者の軍人たちに対してである。逆に、孫権が抑止力を働かせるのは有力豪族に対してである。孫皎がここまで巨大な部曲を従え、都護に任命されているのも結局の所、宗室に一定の力を与えるためであり、抑止力と言える。
- 逆の面から言うと、孫権は孫皎にはもっと大きな仕事をしてほしかった。手紙の中にも「いずれお前は年長者となり、特に大きな仕事を与えられるだろうが・・・」とある。この大きな仕事とは、何か?というと、おそらく、孫権の名代として軍の総司令として遠征を行う、あるいは大きな州(荊州あるいは益州)の統治者となる・・・という仕事だ。孫権は孫皎にそれをしてほしかった。夷陵で大功を立て、荊州の統治を任された陸遜がなんで憤死しなければならなかったのか?という点を考えれば、いかに宗室の中に優秀な人材がいて君主代理を務めてくれる事のありがたい事か。曹操にはそういう人材が一杯いた。曹仁・曹洪・夏侯淵・夏侯惇。みな血縁のある親族である。対して、孫呉では大きな戦いでキーパーソンとなる人物は周瑜・呂蒙・陸遜・陸抗。呂蒙以外はみな名士であり、有力豪族である。これはいかにもつらい。孫皎は孫家宗室の中で、数少ない貴重な人材だったのだ。
- そんな孫権の期待感は219年の関羽挟撃の際にも現れる。本来、荊州併呑作戦は呂蒙の立案であり、関羽挟撃を実行に移すなら、当然、呂蒙が総司令となるのが筋である。ところが、孫権はいざ実行の段階で、呂蒙と孫皎をそれぞれ左軍と右軍の都督として二人の総司令を置こうとしたのである。孫権は赤壁の際にも周瑜と程普に左右両都督を命じて、呂蒙曰く、「大事を損なう寸前」まで行った事がある。命令系統は一本に統一されるべきであり、関羽挟撃に関しては、作戦立案から携わっている呂蒙がそれにふさわしい。結局、事態を案じた呂蒙の説得により、総司令が呂蒙、後詰めが孫皎という形で落ち着いたのだが、孫権としては孫皎の総司令としての能力を見極めておきたかったのかもしれない。
- (注)なにかと呂蒙と孫皎は行軍がかぶる場合が多く、そのほとんどが呂蒙の戦績が派手に映る。対して孫皎の方は決して見劣りする訳ではないが、陰に隠れがちである。だが、呂蒙もまた孫皎を高く評価していた。呂蒙は荊州併呑後の防衛体制について、孫皎を南郡に、潘璋を白帝城に駐屯させ、蒋欽に水軍を率いさせ、自らは襄陽に攻撃をかける・・・という配置構想を孫権に語っている。南郡の荊州の要というべき重要拠点であり、その統治には孫皎が最もふさわしいと判断していたのだ。
- 219年の関羽挟撃後、同年のうちに孫皎は死去した。呂蒙も同年のうちに病死している。翌年には曹操も死去する訳であるから、関羽の祟りと言いたくなる気持ちもわからんでもない。しかし呂蒙は42歳、曹操に至っては66歳だった訳だから、まあ十分生きたと言えるかもしれない。だが、孫皎は188年前後の生まれという推測が正しいなら、31歳での死去である。これはあまりにも早すぎる死だった。せめてもう後10年長生きしてくれてたら、孫権の国家経営も、もう少し楽な物になっていたかもしれない。孫家宗室は、どうもパッとしない人材が多いだけに、なんとも惜しい人物でした。 ▲ -孫皎伝 了-