【 幻の蜀王 】
  • 206年の段階において、部曲一万数余人という孫瑜の兵力は孫呉政権においてかなり重要な兵力だった。208年の赤壁においては、孫瑜は目立った活躍が見られないが、これはおそらく、丹陽の押さえとして牛渚辺りの守備に当たっていたからであろうと思われる。ここを抜かれると一気に中枢部が抜かれるという重要拠点だ。
  • その後、孫呉は赤壁・江陵と曹操との戦いを継続していく。その過程において、再び孫瑜にスポットが当たる。210年、周瑜は天下二分の策を孫権に提示するのであるが(周瑜伝18【 天下二分の策の裏側 】参照。)、その計画において、蜀の統治者として孫瑜を抜擢するのである。具体的な提案で言うと、
    • 周瑜は孫瑜と共に蜀・漢中に攻め入る。
    • 蜀に孫瑜が残り、周瑜は荊州に取って返す。
    • 涼州の馬超と同盟し、襄陽を拠点として曹操と雌雄を決する。
    という物だ。これによると、孫瑜は蜀平定の主力であり、蜀の統治者であり、漢中方面の軍事司令官であり、また馬超と連携する際の外交にも重要な役割を担わなければならない事になる。これは周瑜が孫瑜という人物を高く評価していなければ、あり得ない抜擢であろう。周瑜から見て、孫家宗室の中で孫瑜はダントツの人物だったのだ。もし、周瑜の計画が実施されていた場合、孫瑜の人生はかなり違った物になっていただろう。蜀制圧が成功したと仮定した場合、孫瑜は蜀に駐屯する。状況によっては、蜀王に封じられていた可能性も無視できないだろう。だが、この計画は周瑜の病死によって頓挫する。時は210年の事だ。
    • (注)劉備伝注の献帝春秋によると、孫瑜は水軍を統括して夏口に駐屯し、劉備は孫瑜の蜀入を阻止するため、関羽を江陵に、張飛を秭帰に、諸葛亮を南郡に、劉備自身は孱陵に布陣した・・・と書かれている。これが事実だとすれば、まさに周瑜の天下二分の策は実行寸前で破棄されたという事になるだろう。周瑜が病死したのは洞庭湖にほど近い巴丘であるから、長江を挟んで、劉備と周瑜・孫瑜が対峙したかのように見えなくもない。そもそもこの時期に関羽・諸葛亮が南郡・江陵に布陣したとなると、未だ江陵が劉備に譲渡?されていない状況で、関羽らが江陵周辺を闊歩していた事になる。そうなると、むしろこの献帝春秋の記述は周瑜死後の事だろうか?周瑜の要請を受け夏口に駐屯した孫瑜は、周瑜死後も計画通り、蜀入をしようとした。それを劉備は阻止しようとし、孫権も無理をせず孫瑜を帰還させた。そういう事かもしれない。だとしても、周瑜死後は魯粛が江陵城に入り、南郡太守は程普が引き継いだはずで、関羽が江陵、諸葛亮が南郡という配置はかなり際どい。どうも献帝春秋の記述は尾ひれがついているような感が否めない。
  • 周瑜死後、211年からしばらくの間、孫呉は曹操と合肥・濡須で激戦を繰り広げた。孫瑜も丹陽太守として当然のごとく戦役に参加。曹操の侵攻を濡須で食い止める戦いでは、積極的に打って出ようとする孫権に自重するように説いている。この時期、曹操が濡須に侵攻したのは212年と216年の二回あるが、この後の記述を重ねると、この戦役はおそらく212年の方と思われる。諸葛亮の十万本の矢の元となった、【孫権は、船が転覆しそうになったので船を180度回頭させて,もう片方にもしっかりと矢を浴びてバランスを取ってから引き上げた。】というエピソードがある戦いだ。呉書の方にも孫権が何度か曹操を挑発したという記述もあり、こうした孫権の挑発行為を孫瑜は諫めたのだろう。この時の戦いは、戦線が膠着したまま終わっている。
  • こうした武功により孫瑜は奮威将軍(魏では程昱・呉では陸抗などが就任)に昇進、丹陽太守のまま駐屯地を溧陽から牛渚へと変更している。溧陽が長江から少し内陸にあるのに対し、牛渚は長江南岸であるから、孫瑜の役割は、より攻撃的になったと考えて良いだろう。その目的は廬江併呑にある。呉全体としても214年頃は廬江への侵攻が明確に打ち出された時期で、214年の呂蒙の皖城攻撃に続き、215年には合肥城を包囲している。215年の合肥城包囲は大失敗だったが、214年の皖城攻撃は成功し、呂蒙は廬江太守となっている。太守と言っても廬江全体を支配した訳ではなく、長江北岸に屯田を敷く事に目的があった。孫瑜もこの動きに連動し、幕僚の饒助を襄安県長に、顔連を居巣県長に任命。廬江と九江の帰順を呼びかけさせ、一定の成果を収めたようだ。孫瑜伝には廬江と九江が呉に帰順したとあるが、その後216年の濡須侵攻では、曹操は居巣に陣取っているので、廬江と九江が完全に帰順したとは思いがたい。むしろ214年の皖城攻略成功に連動していくつかの県を帰順させるのに成功したと見るべきだろう。
    • (注)孫瑜が積極的に打って出ようとした孫権を諫めた・・・という戦いを216年ではなく212年の戦いとした理由は、もし216年の方だとした場合、矛盾が生じるからである。216年の濡須侵攻では、孫呉はかなり押され気味で、孫権が積極的に打って出ようとする余裕があったとは思いがたい。また、この戦いの結末は孫権が曹操に臣従を申し出る形で終わっており、孫瑜伝の記述順で追っていくと、孫権が臣従を申し出たにも関わらず、孫瑜は牛渚への駐屯地を変え、部下に廬江と九江の帰順を画策させた事になる。これは多少難のある解釈になるので、212年の方とした。
    • (注の注)つーか、孫瑜は215年に死んでるんだから、絶対212年の方じゃん(核爆)うわーすげー無駄な注書いちまったよ。
  • その後、孫瑜は215年に39歳で死去した。孫瑜には五人の息子がいたが、四男の孫曼が将軍となり侯に封じられたという程度で、父の孫瑜ほど重責を担った人物はいない。なぜか孫静一族の名代は兄弟順に引き継がれていく。孫権自身も兄・孫策から引き継いだ訳で、どうやら孫呉の場合、孫権が呉王となる以前は、能力次第で親子相続以外も可だったようである。  -孫瑜伝 了-