【 孫和の母 】
  • 王夫人は琅邪の人である。
  • 孫権夫人には王夫人が二人いる。一人は孫和の母の王氏であり、もう一人は孫休の母の王氏である。同じ呼び方になるとややこしいので、こちらの孫和の母の王夫人は、以後、琅邪の王夫人と呼ぶ事にする。
  • 琅邪の王氏の家系もイマイチよく分からない家系である。父は王廬九と言う名だったという事しか分からない。また呉の人物を見ても王姓で有力な人間は皆無であり、琅邪の王氏には強力な外戚関係はないと言って良いだろう。とりあえず、琅邪から江東に逃れていた訳であるから、琅邪の王氏は江東に土地基盤を持つ豪族ではない。孫権の妻は、謝氏・徐氏の最初の二人の夫人は江東に土地基盤を持つ豪族の娘であったが、歩夫人以降、王氏・潘氏いずれも寒門の出である。つまり、深読みすれば、歩夫人を娶った辺り(赤壁以後)から、孫権は豪族との協力関係構築のために夫人を選ぶ必要が無くなってきていると読む事もできる。
  • 琅邪の王夫人は黄武年間に孫和を産んだ。黄武年間は222年から228年の事である。その時期に王夫人は十代~二十代前半であっただろうから、琅邪の王夫人が孫権の妻になったのはその少し前になると予想できる。となると、歩夫人を娶ったのが209年前後であろう事を考えるとその間がずいぶんと開いているのが分かる。もちろん名前が知られていない夫人もいるとは思われるが、子が生まれていない事を考えると、歩夫人が孫権の寵愛を受けた期間というのはずいぶんと長く、歩夫人は、まさに孫権の全盛期を共に過ごした人だと言うのが理解できる。
  • その歩夫人に次いで孫権の寵愛を受けたのがこの琅邪の王夫人である・・・と王夫人伝にはある。ただし琅邪の王夫人が孫権の寵愛を受けていたから、その子である孫和が皇太子になったのか?というと、それは語弊がある。
    • 238年 歩夫人死去
    • 241年 孫登死去
    短期間に起こった、この皇后(正式ではないが)・皇太子の相次ぐ死去による物と言って良い。まず皇太子から言うと、長子である孫登が死去した241年の時点で、次子の孫慮も死去しており、必然的に三男の孫和が皇太子候補になった。もうこの時点で孫権も高齢であるから、早急に皇太子を立てる必要があり、翌年の242年には孫和が皇太子に立てられている。つまり、孫権が王夫人を皇后にしようとしたとしても、それは孫和が皇太子になったからであり、別に王夫人が寵愛を受けていたから・・・とは限らないのである。
  • それに、実は孫権が歩夫人死後に皇后にしようとしたのは袁夫人である・・・と潘夫人伝注の呉録にある。もしこれが事実だとすると、孫権は、歩夫人に次ぐ寵愛を受けていたはずの琅邪の王夫人を差し置いて、子も生まれていない袁夫人を皇后にしようとしたという事になり、明らかに記述に誤差が生じている。どうも歩夫人の例を見ても、袁夫人の例を見ても、孫権の場合、皇后と皇太子が一対でなくてはならないという意識がほとんどない。自分が最も敬愛する女性が皇后であり、子の中で最も有能な者が皇太子・・・そんな感覚を見て取れる。しかし、群臣の方の感覚はそうではない。孫和が皇太子になったのであれば、皇后は琅邪の王夫人。これが常識である。孫権は一個人ではなく国家なのだから。
  • そういう訳で、孫和が皇太子となった後は、王夫人を皇后とし、諸子を王とするように・・という上奏が重ねて行われているが、どうも孫権は乗り気ではない。適当な事を言ってはぐらかしてしまう。結局、孫権は四男の孫覇を魯王に封じただけで、王夫人は結局、皇后にせずじまいだった。これを見ても果たして本当に琅邪の王夫人が歩夫人に次ぐ寵愛を受けていたかどうか?疑問視さぜるを得ない。