【 失意の病死 】
  • だが一方で、琅邪の王夫人と他の妻たちの区別化は行われている。
    次の夫人伝である南陽の王夫人伝には、孫和が皇太子になり、その母である琅邪の王夫人が重んぜられるようになると、孫権の妻妾たちは皆、地方に出される事になったとある。妻たちを地方に出す(宮中から離れさせる)という処置は徐夫人の時にも行われており、おそらくこれは孫権の主体的な意志によるものである。王夫人の一存で出来るような事ではない。つまり、この一件は、孫和-王夫人の立場を強化する方向に向かっており、それほどの寵愛が孫権にあるのなら、王夫人をさっさと皇后にすれば良いと思える。
  • どうも、これらを総合すると、孫登死後、孫権の意識の変化をいくつかの段階に分けた方が分かり易そうである。
    • 歩夫人死後~孫登生前(238~241の期間)→孫権は歩夫人に次いで寵愛していた袁夫人を皇后にしようとした。
    • 孫登死去~孫和皇太子就任の期間(241~242の期間)→現時点での長子である孫和を皇太子にする意志を固め、孫和-王夫人のラインの強化を図った。
    • 242年以降→王夫人を皇后にしようという意志が弱まり、皇后を立てるのをためらっている。
  • 歩夫人死後~孫登死去前の期間は、皇太子の問題は発生していない。つまり、孫権の意識は皇后問題のみ。つまり、以前からの孫権の感覚通り、現時点で最も敬愛する女性を皇后にしようとした。それが袁夫人である。袁夫人は性格的にも歩夫人のそれに近く、慎み深い人だ。孫権が寵愛していたとして不思議はない。
  • だが、皇太子の孫登が死去したとなると話は違ってくる。孫権も歳が歳であり、早急に国家の道しるべを作らなくてはならない。そのためには孫和-王夫人という皇太子-皇后ラインを群臣の納得する方向で、固めなくてはならず、孫登死去直後の時期は、王夫人の立場強化が行われている。これが琅邪の王夫人伝にある【孫権は王夫人を皇后としようとした】の部分に当たる。
  • しかし、後述する理由により、孫権は次第に王夫人を皇后にしようという気持ちが弱くなってくる。結局、孫権が皇后を立てようとしないので、群臣たちは皇后を立てて諸子を王に封じるように・・・という、ごく当たり前の上奏をせざるを得なくなる。皇太子が立ったら皇后はその母であるというのは当たり前の事なのだ。こんな上奏を繰り返ししなくてはならない方がおかしい。では、孫権が琅邪の王夫人を皇后にするのをためらった理由は何か?である。
  • 王夫人伝に直接記載のある理由は、孫魯班の讒言だ。
    孫魯班は歩夫人の忘れ形見である。歩夫人には男子は産まれず、二人の女子・公主を産んだだけだった。その長女が孫魯班に当たる。孫魯班は慎み深かった歩夫人の子とは到底思えないほどの強烈な個性を持った女性で、明らかに求心力・行動力を持った孫家の女性の血を色濃く受け継いでいる。
  • 理由は定かではないが、兎に角、孫魯班は琅邪の王夫人を憎んでいた。憎まれる方にもそれ相当の原因はあるのだろう。おそらく歩夫人生前から歩夫人をないがしろにする行動があったか?あるいは、死後、急にないがしろにするようになったか?だ。もしそうだとすれば、琅邪の王夫人は孫権好みの女性像とは異なる。いずれにしても、孫魯班と王夫人は犬猿の仲となり、孫魯班は少しずつ王夫人の悪口を孫権に吹き込んでいき、ついには孫権が思い病気にかかった時、王夫人は嬉しそうな顔をしていると告げるに至って、孫権は王夫人に酷くあたるようになった。その頃にはすでに二宮の変も勃発していた事もあり、琅邪の王夫人は心労のあまり病死したと言う。この辺りは深く掘り下げれば二宮の変の真相にも直結しそうな所だが、あまりにも長くなるので後々という事で(汗)。
  • さて、では王夫人が病死したタイミングはいつ頃だろうか?
    王夫人伝の記述を信頼するならば、王夫人は【孫権が病気になった時、うれしそうな顔をした】訳であるから(少なくとも孫権にそう信じさせる事が可能だった)皇太子が孫和であった段階の話だ。つまり250年以前の話になる。孫和伝にも同様の記述があるのだが、それによると孫和は張休の家に立ち寄ったとある。つまり張休が自殺させられる以前の事だ。張休が死去したのは243年~数年の間の事(張休が太子太傅に選ばれたのが二十歳頃。張休死去時の年齢が41歳。太子太傅が置かれたのが222年。)なので、話の筋は合っている。という事は王夫人は孫和が未だ皇太子の地位にあった時期に病死している事になる。240年中頃は魯王派が圧倒的優勢にあった時期だった。いや・・というより、王夫人追い落とし派が優勢にあった。王夫人はそうした逆風の中、病死した訳である。たぶんに二宮の変というのは、皇后問題が皇太子問題にまで波及してしまったという雰囲気を孕んでいるのだ。
  • 失意の中、病死した琅邪の王夫人ではあるが、代が変わり、孫晧の時代になると在命中は決して叶わなかった皇后就任の夢が叶う事となる。孫和の息子である孫晧は、祖母の王夫人を追尊して大懿皇后と贈り名した。生前に皇后になれていたならどんなに幸福だった事だろうか?因果応報を感じざるを得ない。
     -王夫人伝(琅邪) 了-