さ行「さ」

 左奕(さえき)

  • 272年の西陵督・歩闡の反乱に際し、陸抗指揮下の将軍として、吾彦・蔡貢らと共に西陵攻略に赴いた。

 沙摩柯(さまか)

  • 演義では甘寧を射殺した南蛮王。実際には南蛮ではなく、荊州・武陵の五渓蛮の族長。しかも甘寧を射殺すどころか、夷陵の戦いで死んだ事しか分からない。よくたったこれだけの記述から、甘寧を射殺すという大役を授かったもんだ。ある意味スゲー奴だ。念のため言っておくと、甘寧は夷陵では死んでいない。ちなみに沙摩柯は「さまか」あるいは「しゃまか」と読まれている。まーどうでも良い。
  • もう少し、前後を考察していくと、劉備は夷陵に進出すると、馬良に命じて五渓蛮の帰属を呼びかけさせている。沙摩柯は馬良の呼びかけに応じて、蜀軍に加わったと思われる。で、蜀軍に加わったのは良いのだが、陸遜が反攻に転じた時に首を切られた。かなりかわいそうな人だ。
  • むしろ、演義で沙摩柯が甘寧を射殺す大役を仰せつかった背景の方が面白そうだ。たぶん、蜀軍にいる異民族=南蛮、というイメージが強かったのだろう。沙摩柯=南蛮のイメージが最初にあって、赤い顔に青い目、髪は結わずに裸足という、いかにもなキャラが完成→こりゃ強そうだ→甘寧射殺すの大役を仰せつかる・・・という流れだろう。しかし、さすがに活躍させすぎ・・・と思われたのか、最後は周泰に一騎打ちでやられている。話は全く変わるが、周泰は正史より演義での方が扱いが良い、珍しいタイプの呉将である。

 蔡遺(さいい)

  • 呂蒙伝に出てくる江夏太守。ある時、蔡遺は部曲の事で呂蒙を讒言する。で、豫章太守の顧邵が死去した時、呂蒙は孫権から後任に誰が良いか?と訊ねた所、呂蒙は職務を大切にする優れた役人であるとして、蔡遺を推薦した。呂蒙の器のでかさを示すエピソードなのだが、蔡遺の讒言の内容も正当性のある物だったのだろう。エビソードとしてはこれだけ。
  • それよりも、注目したいのが、
    • 蔡遺は江夏太守だった。
    • 呂蒙に推薦されて、顧邵死後、豫章太守となった。
    という二点である。まずもって呂蒙は219年死去。江夏太守が呂蒙に部曲の事でいちゃもんをつけたとなると、考えられるのが、呂蒙が奉邑として下賜された陽新だ。陽新は江夏郡にある。よって陽新での徴兵を巡って、当時、江夏太守だった蔡遺と職務上の対立が起きた・・・と、考えられる。うーん、我ながらなかなかよく考えついたもんだ。となると、蔡遺が江夏太守だった時期は、呂蒙が陽新を奉邑として下賜された215年~呂蒙が死去する219年の間の事だ。で、しかもその期間の間に顧邵が死去して、蔡遺は呂蒙の推薦で、豫章太守となった事が分かる。という事は、顧邵が死んだのは、215年から219年の間と断定できるではないか?
  • よし。今度は顧邵伝を見てみよう。顧邵は27歳で豫章太守となった。で、郡にある事、5年で死去したので、32歳で死んだ事になる。という事は、顧邵が豫章太守となったのは、210年から214年の間の事となる。で、豫章太守と言えば、孫賁・孫鄰親子がいる。孫賁が豫章太守となったのは、孫策が黄祖討伐を行った199年、あるいは翌年の200年の事となる。あと孫賁伝に「孫賁は官職にある事11年で死去した。」とある。もう一つ。208年に征虜将軍になっているので、孫賁は少なくとも208年までは生きている。で、その後を継いで豫章太守となったのが、息子の孫鄰。孫鄰は9歳で父に代わって豫章太守となったとあるが、これは19歳の間違いではないか?と集解に注が書かれている。で、官位を進めて都郷侯となって豫章郡にある事20年近くなり、反乱者を討伐して業績を上げた・・・とある。
  • つまり、顧邵伝の記述と、孫鄰伝の記述は明らかに矛盾している。蔡遺の記述から考えると、顧邵は210年から214年の間に豫章太守となった。で、問題は孫賁と孫鄰だ。孫賁がいつ死んだのか?は微妙だが、208年以降であるのは間違えない。で、官職にある事11年な訳だから、この官職は豫章太守の事だろう。だとすれば210年、あるいは211年の死去だ。つまり、孫賁の後を孫鄰が継がず、顧邵が継いだと考えると、きれいに繋がってしまう。んじゃ、孫鄰が豫章太守となったというのは一体なんなのか?で、思い出すのが、集解に間違えではないか?と指摘された、孫鄰は9歳で父に代わって豫章太守となった・・・という記述。これが本当だったとしよう。9歳で太守はさすがにできない。だから、父が死んだ時、一時的に豫章太守預かりになった物の、(すぐに)官位を進めて都郷侯となって豫章郡にある事20年近くなった・・・のではないか??つまり孫鄰は豫章太守となってすぐに侯となった。豫章にいたのは侯としてである。太守の座は顧邵が継いだ。そう考えなくては、蔡遺の記述もおかしくなる。もし孫鄰が豫章太守のまま20年もいたなら、当然、蔡遺も豫章太守になれない。呂蒙が蔡遺を豫章太守に推薦する事もあり得ない。
  • もう一つ考えられる事がある。実は210年、孫権は豫章郡を分割して鄱陽郡を作っている。で、その鄱陽郡の太守に顧邵か孫鄰のいずれかが任命されていたのを一環して豫章郡太守と言っているのかもしれない。いやー、ひょんな事からすげぇ方向に考察が向いてしまった。

 蔡潁(さいえい)

  • 孫和が太子に立てられた時、側近となった。だが、根っからの博打好きだったらしい。で、蔡潁の博打好きが役所に影響を与え、当直の者が博打に興ずる事が多くなった。それを見た孫和は博打を批判。当時、中庶子だった韋昭に博打を批判する文章を作らせた。

 蔡款(さいかん)

  • 字は文徳。彭城国の人。張承に、年を若くして推挙された。不遇な境遇にあったというから、寒門だったようだ。呉録によると、蔡款は中央や地方で官職を歴任し、清廉にして節操ありと評判を得た。後に衛尉に昇進し、中書令の職務に当たり、留侯に封じられた。

 蔡機(さいき)

  • 蔡款の子。臨川太守になったらしい。呉滅亡の際、捕虜となった。

 蔡貢(さいこう)

  • 272年の西陵督・歩闡の反乱に際し、陸抗指揮下の将軍として、左奕・蔡貢らと共に西陵攻略に赴いた。「陸抗さん、アンタ、最高だよ!!」・・・と、言ったかどうかは知らない。

 蔡条(さいじょう)

  • こんばんわ。蔡条ヒデキです!!



    ・・・・正直、すまん。
  • 蔡款の子。孫晧期に尚書令・太子少傅にまで昇進した。

 蔡文至(さいぶんし)

  • 潁川の周昭(韋昭・薛瑩・華覈らと共に呉書の編纂をしていた。)の書いた文章の中で、張承が有能さを賞賛した人物として出てくる。貧しい身分にあったらしい。周昭の文の流れから考えて、この人は先ほど出てきた蔡款と同一人物ではないか?と思うのだが。だが、蔡款は字が文徳であるので、別人と考えられているのだろう。しかし張承が蔡という姓の人を二人も推薦し、両方とも寒門の出・・・となると、同一人物ではないだろうか?

 蔡林(さいりん)

  • 253年の諸葛恪による合肥新城包囲戦において、都尉として参戦。しばしば作戦計画を上奏したが、諸葛恪に無視されたので、魏に逃亡した。

 笮融(さくゆう)

  • 北の呂布、南の笮融と言われるほどのトラブルメーカー。
  • 元々、笮融は丹陽の人であった。笮という姓は三国時代に二人しか登場しない。もう一人は高句麗の主簿。笮という姓は相当に珍しい姓のようだ。なんとなく尤突など山越の人間の姓と共通点がありそうな気がするのだが。
  • 彼を支えたのは一にも二にも、宗教の絆で結ばれた同士たちである。彼が一体どこで仏教という宗教を知ったのか?は定かではないが、彼が丹陽にいる頃にすでに数百人の部下がいた事を考えると、すでに丹陽にいた頃から仏教と関わりを持っていたと考えて良いだろう。当時、江東には宗教勢力がいくつかあった。孫堅伝にも会稽の妖賊・許昌の反乱の事が書かれており、孫策期にも豫章郡の上繚に宗教勢力があった事が書かれている。笮融もそうした宗教勢力の一つだったのだろう。
  • 笮融は江東で独立勢力となるのではなく、陶謙を頼って徐州に渡るという決断をする。陶謙の人物像というのは見えない部分があるが、笮融の他にも下邳で勝手に天子を僭称した闕宣と同盟を結んでいたという事が陶謙伝本文に書かれている。なぜ、陶謙が笮融・闕宣と言った類の人間を利用しようとしたのか?は理解しづらい。劉繇が笮融を重用した理由は、一重に軍事力増強のためではないか?と想像がつくのだが、陶謙の場合、当時の笮融勢力にそこまでの軍事力的価値はない。なんとなく、その後の徐州での笮融の仏教活動を見るに、陶謙は徐州で仏教を広める事を許可したのではないか?という気もしないではないが。
  • 劉繇伝付記の部分に笮融の徐州での仏教活動の様子が書かれている部分があるので抜粋する。
    • 陶謙は笮融に広陵・彭城の物資運漕の監督に当たらせたが、笮融はその物資を徐州に送らず自分の物とし、その財力で仏教寺院を建設。銅で人間の形を作って(仏像の事。)その体に金を塗り、錦や彩り鮮やかな布の着物を着せた。寺院は九層でその下に幾層の楼と閣道を造り、三千人以上を収容できた。門下生には仏典を読む事を義務づけ、仏道に帰依したい者には出家を許し賦役を免除した。浴仏の儀式(よくは分からないが、浴仏というのは仏像にお香を立てる事を言うらしい。)が行われるごとにおびただしい酒肴を用意し、道に敷かれた筵は何十里にも及んだ。その儀式を見るために一万人を超える人々が集まり、費用は巨億に及んだ。
    まさにやりたい放題な訳だが、やはり不思議なのは、仏門に入った人々の賦役が免除されたり、浴仏の儀式が公認され、近隣の人々が見学に来ていると言った点だ。どうもこの様子を見るに陶謙は笮融の仏教活動を容認、あるいは支援していたのではないか?と思えなくもない。だがそんな事をすれば、儒教的価値観を重視する名士層にそっぽ向かれるのは自明の理だと思うのだが、そうでもないのだろうか?孫策伝注、江表伝によると、笮融は下邳国の相だったと書かれていて、そうだとするならば、陶謙は笮融を重用していた事となる。
    • (注)初期の仏教の様子は門外漢だからよく知らないが、中国に仏教が入ってきたのは、後漢明帝期で、三国時代に初めて入ってきた訳ではない。が、まだまだ仏教は新興勢力だったと言って良いだろう。物の本によると、初期の仏教は道教とごっちゃになっている部分が多いらしく、もしかしたら陶謙も珍種の道教の一種としか認識していなかったかもしれない。
  • いずれにしても、笮融からすれば徐州での仏教活動が彼の軍事的基盤となった。劉繇伝付記の笮融伝によると、曹操が徐州に攻め込むと、笮融は男女一万人と馬三千頭を引き連れ、広陵に逃亡。広陵太守の趙昱は彼を賓客として迎え入れたが、笮融は酒宴の席で趙昱を殺害。兵を放って略奪を行い、そのまま劉繇を頼って江東に渡り、秣陵の薛礼と合流して対・孫策戦線に投入される事となる。
  • 劉繇伝付記の笮融に関する部分では、このような事が書かれているのだが、陶謙伝付記の趙昱伝の部分では、笮融は、始め臨淮に身を寄せていたが(曹操に)討伐されて広陵に逃亡。趙昱は軍を率いて笮融と戦うが、敗戦し殺害された・・・となっている。劉繇が笮融を受け入れた理由は、おそらく純軍事力的な問題からだと推測できるが、もし劉繇伝付記のように笮融が広陵で略奪を行って、江東に流れてきたのだとすれば、清廉で知られる名士中の名士・劉繇が彼を受け入れたというのが、どうも信じがたい。広陵の略奪の件は、陶謙伝付記の趙昱伝の記述の方が自然に感じる。
  • さて、再び江東に戻ってきた笮融であるが、対・孫策戦線では笮融はさんざんに打ち負かされた。秣陵城戦では孫策に翻弄された挙げ句、曲阿が落ちると、盟主・劉繇と共に豫章郡に落ち延びる。だが、ここからも笮融はやっぱり笮融。豫章に入ると、先駆けとなったのは良いが、太守の朱晧を殺して郡の役所を占領。劉繇に反旗を翻す。一度は劉繇軍を蹴散らす物の、二度目に劉繇が攻撃を仕掛けると敗退し、山中に逃げ込むが付近の住民によって殺されてしまった。
  • 呂布ほどのスケールの大きさはない物の、トラブルメーカーとしては呂布に匹敵する人物である。笮融自身の持つ野心と、笮融の持つ兵力を利用したい群雄たちの野心との狭間で、利用したり利用されたりしながら、乱世を騒がせた異色の宗教家だったと言えるだろう。