さ行「し」

  • (注)このテキストは2007年に一度書かれていますが、2014年のサイト消滅の際、データが紛失しています。ここにあるのは2015年に再度書いたものです。

 士壱

  • 士燮の弟。
  • 元々郡の督郵をしていた。交州刺史の丁宮が都に戻ることになった時、士壱は心をこめて送別を行った。それに感激した丁宮は「私が三公(司徒・司空・太尉)になったら、あなたを召し寄せよう」と言った。果して丁宮は司徒となり、士壱を召し寄せた。士壱が都に行ったときには、すでに司徒の座は丁宮から黄琬に代わっていたが、黄琬も士壱を礼遇したという。
  • 士燮伝注呉書には、「士壱が黄琬のために心を尽くして働いたので、董卓に憎まれ、何年も昇進しなかった。」とあるが、これは時系列がおかしい。黄琬が司徒になり、董卓が乱を起こして黄琬が司徒の座から退くまで一年以内の出来事であり、「何年も」昇進しなかったなんてことはあり得ない。こうした記述を陳寿が呉書から省いていることからも陳寿の「事実と異なることは記載しない」という方針が見える。
  • さらに言うと、この手の話は「できすぎている」ので創話と思われる。分かるのは「士壱は士燮同様に教養人であった」ということ、もう一つは丁宮が三公であった時期(180年代後半)には「すでに士家は交州では並ぶものがないくらいの名士であった」ということだ。でなければ黄琬が士壱を礼遇する必要性がない。
  • で。董卓が乱を起こすと士壱は交州に戻った。黄琬が司徒の座を追われるのは189年だから、この年に士壱は交州に戻ったのだろう。広州刺史の朱符が死去(196年頃)すると士壱は士燮の上奏により合浦太守となった。でその後、孫権に偏将軍・都郷侯に任じられている(おそらく雍闓の帰順に対する功績で)。で士燮が死去した際(226年)、後継の士徽が反乱を起こした際、出頭し死罪を許され庶民となった。が数年後、法を犯したとして誅殺されている。庶民に落とした後も理由をつけて誅殺しないといけないくらい士一族の交州における影響力は大きかったということだ。
  • で・・だ。士壱は士燮の兄弟で、さほど年が離れている印象はない。で士燮死後もこの人は生きていた。となると、士燮だけでなく士壱も相当な長生きだ。80代、下手すれば享年90歳なんてこともあり得る。兄弟揃って長生きとなると、遺伝子的に長生きの家系だったのか?「三国時代の金さん銀さん」の称号を与えてよいと思われるw

 士[黄有]

  • 士[黄有](カイ)。士燮の弟。士壱同様に196年頃に九真太守となり、226年の士徽の反乱の際、庶民に落とされ、数年後に誅殺されている。・・・待てw。すると、こいつも80代なんじゃないか?「金さん銀さん」どころか「長生き3兄弟」じゃねーかw

 士幹

  • 士燮の子。士徽の弟にあたる。士燮には士祇・士徽・士廞・士幹・士頌と名前が分かっているのが5人。その中で士欽は交州におらず、人質として武昌にいた。だから士徽が呂岱に降伏した時に出頭した士燮の息子たちは合計4人なんだが、呉書には「兄弟6人」と士燮伝にも呂岱伝にもある。名前が分かってないけど、実はあと二人兄弟がいた・・・んだろう。あるいは士祇・士徽の息子が含まれているか?だ。

 士徽

  • 士燮の子。士燮の後継者としてみなされることが多い。
  • みなされることが多い・・というのは士徽は士燮の長男ではないからである。長男はおそらく、士祇という人物だが、呂岱伝に「士燮死後、孫権は士徽を安遠将軍・九真太守に任じた・・」とあるため、後継者と見なされている。だが、孫権は明確に士燮死後の士一族撲滅計画を練っていたと思われるので、これは内部分裂を誘うための策略ではないかと思われる。つまり「一番血気盛んで孫権の目論見通り動いてくれそうな人間=士徽」を敢えて、指名したのではないか。というのも、士祇は弟の士徽の言う通りに反乱を起こし、一緒に処罰されており、あまり主体性が感じられるタイプではない。こういう人物なら孫権の思惑通り反乱を企画してくれない可能性がある。
  • 孫権の士燮死後の計画は簡単に言うと、交趾太守の座を士一族から取り上げることである。(士燮生前から交州刺史は士一族ではない。士燮は刺史の座には全く固執していない。)交趾は南海貿易の拠点であり、ここを士一族が支配している限り、おいしいところは奪われたままになる。だから孫権は士徽を交趾太守ではなく、もう一つ南の九真太守としたのだ。
  • 士一族撲滅作戦の詳細は呂岱伝で述べたいと思うが、血気盛んな士徽は孫権の思惑通り、交趾から立ち退くのを是とせず、交趾太守を自称し、海口を固めた・・とある。海口というのがどこにあるのか調べてみたら、どうも海南島にあるようだ。つまり交州を攻略するには海路が重要であり、海南島と本土の間の狭い回廊を制圧したということだろう。陸路にしたって海岸沿いである。海南島は位置的には交趾より合浦であり、ここを抑えられるということは、士一族の支配力は当時でもかなり強かったことが分かる。
  • が。士徽側に内部分裂が発生する。桓鄰は、士燮が取り立てた役人だったが、戴良(士燮死後に交趾刺史に任命された人物)を迎え入れるように諫めたため、士徽は腹を立てて桓鄰を殺害。桓鄰の兄の桓治と息子の桓発が反乱を起こす。すると士徽は籠城を選択し、数か月に渡って士徽と桓治・桓発軍が対峙することになる。この対立は勝敗が決まらず、結局、和睦が成立している。
  • そんな状態にあるにも関わらず、呂岱はその間、軍を動かした形跡がない。おそらく様子を見ていたんだろう。うまいこと士徽が自滅してくれたら、それに越したことはない。呂岱がやっていたのは、おそらく「内部分裂の画策」である。呂岱は、士燮直系ではない士匡(士燮の弟)を説得し、士徽に降伏を勧めさせるとともに、軍を急行させた。本家と分家をうまく利用したのである。すると士徽は桓治・桓発との対立で疲れ果てていたのか、あっさり降伏した。呂岱が昼夜を問わず急行して交趾に向かってきているという情報も大きかっただろう。時間的余裕がもうない・・と意識させるためである。
  • 「官職は失うが、他には罰は受けないから」と説得されていた士徽らであるが、そんなに甘い訳もなく、降伏した翌日には、処刑されてしまった。こうして士燮が作り上げた交州の士一族の利権は途絶えることとなる。

 士匡

  • 士壱の子。建安の末年(220年)に士燮が息子の士欽を人質に差し出し、孫権も士欽を武昌太守とした時(221年)に、中郎将となった。
  • 士匡は以前から呂岱と交わりがあり、士徽が反乱を起こした際、士徽らの説得に当たっている。士壱・士[黄有]の二名は当時、かなりの高齢であったと思われるため、士一族の分家の実質上の主は士匡だったと思われる。その分家の棟梁たる士匡が呂岱側についたということになる。士徽からすれば、この内部分裂は決定的と思われたに違いない。
  • 士匡からすれば、士徽らが反乱を起こしたことで、分家である自分が士一族の棟梁となり、権益を維持されることを目論んだと思われる。しかし、こりゃ相手が悪い。士燮の死を苦虫を噛み潰して待ち続けた孫権の執念を分かっていなかった。結局、「官位を剥奪されるだけで他の罪は問わない」はずの士徽らは降伏した翌日に処刑される。甘い期待は幻想に過ぎなかったことを思い知らされた士匡は、士壱・士[黄有]の老体二名とともに出頭。官位を剥奪され庶民に落とされる。「官位を剥奪されるだけで他の罪は問わない」に該当したのは、なんと協力した側の士匡らだった。
  • さらに数年後には士壱・士[黄有]は、法を犯したとして誅殺される。どう考えてもかなりの高齢であり、長寿の士一族が気味悪かったんではなかろうかという気がしないでもない。士匡は士一族の末路の中では、一番マシで病死。息子もいなかったが、妻には月ごとに扶持米と銭四十万が支給されたという。仮にも呂岱側について士徽討伐に功績があったことへの配慮だろう。

 士廞

  • 士燮の子。士徽の弟にあたる。219年に孫権に人質として出され、新設された武昌郡の初代太守となった。
  • その後、呉書に士廞に関する記事はなく、一気に士徽の反乱失敗の際、士匡・士壱・士[黄有]らと共に、簡易を剥奪され庶民に落とされたとある。
  • さて、士廞に関して考察するとなると、武昌太守としての在籍期間だろう。実は士廞以外に武昌太守だったと明記されている人物となると、パッと思いつかないのが実情だ。呉の時代の武昌太守となると、ネット上で検索しても、襄陽記に「習温は長沙、武昌太守、選曹尚書、広州刺史を歴任した。」とあるだけで、名前がでてこない。となると士廞は庶民に落とされるまで太守だったと考えるべきで、そうなると221年(武昌郡新設)~227年頃までの在籍となる。その後、習温が太守になったのかもしれない。
  • 武昌は建業に並ぶ、呉の国都であり、その重要は高い。士廞を武昌太守としたのは、むしろ人質として国都の傍に置いておくための方便に近く、実権があったとは考えにくい。そのため武昌太守というのは他の郡太守より名誉的?な使い方がされていた可能性はある。あるいは士廞以降は空席になっていった可能性もあるように思える。

 士祗

  • 士燮の子。おそらく長男。
  • 長男なのに弟の士徽の方が棟梁として抜擢されたにも関わらず、士徽とともに反乱を起こし、士徽と共に処刑されている。

 士頌

  • 士燮の子。士徽の弟。以下、士祇と同じw

 士仁

  • 字は君義。幽州広陽の人。別名を傅士仁。
  • 三国志ファンには傅士仁の名前の方が有名だろう。演義では傅士仁だし、陳寿三国志でも関羽伝では傅士仁である。しかし、季漢輔臣賛には士仁で表記されており、実際には士仁が正しいと思われる。なーんで、傅士仁になっちゃったのかというと、傅というのは「補佐」という意味があるので、「関羽の補佐をしていた将軍の士仁」というのが「傅・士仁」でそれが傅士仁と勘違いされたのではないかとか、「不是人(人でなし)」にかけて傅士仁にしたとか、所説がある。
  • 裏切者として有名だが、幽州出身ということは、かなり以前から劉備に付き従っていた生粋の武人だろうと思われる。関羽に軽んじられ、関羽の出陣に際し、軍資を補給するだけで全力で支援しなかったと関羽伝にはあるが、そんなこたーあるまい。そもそも公安にいたということは留守隊であり、軍資の補給と公安の守備が仕事である。関羽とて呉が攻めてくる可能性を全く考慮していなかった訳でもなく、呂蒙伝には「関羽は守備兵を多数、公安と南郡に留めている」とある。
  • むしろ、関羽と士仁の間に隙間が生じたとしたら、呂蒙が仮病を使ったため、呉の荊州進行はないと踏んだ関羽が守備隊を樊に向かわせるよう指示したことだろう。守備を預かる士仁からすれば、そんなに兵力を割かれては守備が心許なくなる訳で、援軍に乗り気ではなかっただろうし、ここが勝負所の関羽からすれば、なーんでもっと援軍を送ってこない?となる。そこから「戻ったら奴ら(士仁・麋芳)を処罰せねばならん」という発言(関羽伝)に至り、気が付けば呂蒙があっという間に南郡に入り込んでおり、このまま敗退して関羽に処罰されるなら・・・ということで仕方なく降伏した・・というあたりが正しいのではないかと思われる。そもそも劉備一党は、「昨日の敵は今日の友、今日の友は明日の敵」みたいなところがあり、色んな陣営に世話になっては裏切ったり裏切られたりを繰り返していた訳で、士仁からしても、危なくなったら降参するなんて、別に不思議なことでもなんでもない。
  • 呂蒙伝注には、韋昭呉書の「虞翻が見事な手紙で士仁を降伏させる」記事があるが、こりゃ例によって出木杉ーと感じた陳寿が除外した部分ではないかと思われる。ちなみに演義では、関羽の敵討ちに蜀軍が侵攻してくると、呉から離反するが関興に斬首されるという、勧善懲悪の見本になっているが、陳寿呉書では呉に降伏した後は記事がない。麋芳が呉に降った後も起用されているのとは対照的だ。おそらく家柄の差かと思われる。

 士武

  • 士燮の弟。
  • 交州刺史の朱符が殺害された後、士燮の上奏で南海太守となっている。士徽の反乱失敗の際、名前が出てこないことから、士燮兄弟の中で唯一の早死?と思われる。早死というか、残りが長寿すぎるんだが。

 史郃

  • 曹丕伝注「魏書」に出てくる夷陵の戦いの後「孫権」と共に曹丕に帰順した南郡太守。で孫権は侍中鎮南将軍に取り立てられた・・・らしいw
  • 言うまでもないが、夷陵の戦いの後、孫権が直接、曹丕に目通りしたりしていない。この「孫権」は別人である。どういうことかというと、原文は「権」。陳寿三国志では孫権のことを「権」と名指しで呼ぶので筑摩訳は「孫権」と解釈したのだが、これは完全な間違い。ここでいう「権」は黄権のことである。よって史郃も呉の人物ではなく蜀の人物である。

 史璜

  • 後漢末の蒼梧郡太守。
  • 交州刺史の張津が死去した頃に死去しているのだが、その後任を巡って朝廷(曹操)と劉表が対立した。これをきっかけに士燮は交州七郡の監督権を得ることになる。

 施寛

  • 呂拠が孫綝に反乱を起こした際、孫憲・丁奉らと共に、水軍でもって呂拠を江都で迎え撃った。また諸葛瑾伝に、諸葛恪が誅殺された際、無難督の施寛が施績(朱績)・孫壱・全煕らを率いて諸葛融を捕らえるべく派遣された・・とある。
  • これらから考えると、施寛は孫亮期の無難督(直属の親衛部隊)だったと思われる。さて、ここで気になるのは「施績(朱績)」との血縁関係である。施績(朱績)の父・朱然は元は朱治の姉の子で「施」姓だった。「施」姓の三国時代の人物を見ると、そのほとんどが呉の人物。全国的にはマイナーな姓で、丹陽・呉のあたりでのみ存在が確認できる。となると「施」姓の人物はなんらかの血縁関係があるとしても不思議ではない。
  • ただし「無難督の施寛が施績(朱績)・孫壱・全煕らを率いて・・」というのはちょっと腑に落ちない。当時、施績(朱績)はすでに鎮東将軍であり、施寛が施績(朱績)と血縁関係にあったと考えても高位なのは施績(朱績)の方。むしろ親衛部隊の施寛が目付として孫綝の指令を下したという程度であろうと思われる。

 施朔

  • 孫休期の武衛士。武衛というのは近衛のことなので、武衛士というのは近衛兵ではないかと思われる。孫休に「孫綝が謀反を企んでいる証拠がある」と密告した。
  • 密告というからには、近衛兵は孫綝の支配下にあり、にも関わらず孫休に密告を行ったということである。孫休の孫綝抹殺がクーデター的なのもそのためだ。普通に討伐命令を下すと、宮中の軍権を握られているため、成功しないのである。

 施正

  • 孫亮末期の典軍。典軍というのは近衛兵を監督する役職。
  • 孫亮が廃位された後、孫綝に対し孫休を皇帝として迎えるよう進言した。この辺を見ても、孫綝は近衛兵を支配すると共に、その中の人材を重用していたことが分かる。しかも「施」姓が多い。おそらく、施寛・施朔・施正らは、同系ではないかと想像できる。
  • 一方、施績(朱績)は五鳳年間(254-255)に上表し、「施」姓に戻っている。ちょうど施寛・施朔・施正らが孫綝に重用されていた時期である。また施績(朱績)は諸葛融との確執があり、反諸葛恪側の人間。こうしたことを考えると施績(朱績)は孫綝側の人材である。当時、孫綝側には朱熊・朱損(朱桓・朱拠の一族)がおり、彼らと区別化を図るためにも、施績(朱績)の一族は「施」姓に戻った方が分かりやすかったのではないかと思われる。後世の我らにとっても、ややこしいのだからw
  • さて、面白くなってきたので施績(朱績)について考察。仮に施寛・施朔・施正らが同族だったとしよう。そうすると孫綝存命中、孫綝の命に従い諸葛融を討伐し、驃騎将軍に任じられていた施績(朱績)が、孫綝抹殺後も順調に出世し、上大将軍・都護督に上り詰めているのも理解できる。一族の施正が孫休即位を後押しし、施朔が孫綝の謀反を密告しているからだ。つまり孫綝側でありながら、孫休に寝返っているのである。

 施但

  • 呉興出身の山岳部族の首領。永安で暴動を起こし、当時、永安侯であった孫謙を押し立てて建業に迫ったが、丁固と諸葛靚に打ち破られた。
  • さすがに施績(朱績)の一族ではなかろうwただし、呉・会稽には「施」姓が複数存在していた証拠にはなる。他の地域出身の「施」姓の人物は皆無である。

 施明

  • 無難軍の兵士。盗難の嫌疑をかけられたがひどい取り調べを受けても一切、口を割ろうとしなかった。そこで孫権は陳表に施明を預け事情を究明させた。
  • 陳表は施明の手枷を外し入浴させ、衣服を改めさせ酒席を設けた。こうした待遇に心動かされた施明は、自らの罪を認めた・・・と陳表伝にある。孫権は陳表がだましたことにならないよう、施明は赦し、加担した者だけを処罰した。で。その後、心を入れ替えた施明は勇猛な武将として将軍にまで上り詰めたとある。
  • さぁて・・・。この施明と施績(朱績)の血縁関係は微妙だ。事が孫権期であり、この逸話を見る限り、施明は一代で出世した人物のように思える。だが無難軍の兵士であり、その後の施寛・施朔・施正らが、こぞって典軍だったり衛士だったりするのだから、施明との関係性も十分に考えられる。だとすると、彼も施績(朱績)の一族と考えられるのだが・・・・・。
  • 孫権は施績(朱績)が「施」姓に戻ることは許可しなかった。孫権期は施績はあくまでも朱績である。仮に血縁があったとしても、あくまで別の豪族である。だが、陳表も施明を優遇した理由としては、朱績の血縁があったからだと考えることもできる。でなければさすがに、前科のあるただの兵士が将軍にまで上り詰めるのは難しいのではなかろうか?

 斯従

  • 賀斉が剡県の長だった頃、同県の役人だったが、任侠を好んで悪事を働いていたとある。山越がなついていたともある。
  • 賀斉が斯従を斬った所、斯従の一族郎党が攻め寄せてきたが、賀斉はこれを鎮圧した。これにより山越の間に賀斉の勇名が響いたとある。当時の会稽郡において、山越と同調した豪族が中枢にいたことが分かる資料であろう。賀斉はこうした体制を抜本から立て直したのである。

 斯敦

  • 呉寧の人。会稽典録の中で、父に代わって死罪になったとして朱育から称賛されている。要するに会稽の立派な人物の一例。
  • さて、前述の斯従も剡県(会稽郡)の人物である。三国時代に他に「斯」姓は出てこない。つまり会稽特有の姓である可能性も高い。

 車浚

  • 孫皓期の会稽太守。276年に算緡(所得税の一種。銭一千文)を上納しなかったとして斬首され、首を諸郡の間を回された。
  • 江表伝注によると、車浚は清廉・忠実であり、会稽が飢饉にあったので、庶民のための救急の食料を貸し出してほしいと願い出た。孫皓は彼が民衆と個人的な恩義関係を結ぼうとしていると考え、斬首してさらし首にしたとある。
  • 孫皓暴虐の一例な訳だが、ここでは孫皓寄りの解釈を。孫皓は274年に郡の締め付けを強化するため、監察官を派遣している。この時期、孫皓は中央集権を目指し、州・郡の統治強化を行っている。これに対し反発する太守たちへの見せしめとして、車浚は処罰されたという可能性が高い。わざわざ、さらし首にするのはそういう意味だろう。

 射慈

  • 孫休が13歳の時、中書郎だった。孫休は射慈と盛沖から学問を習っていた。よほど教えるのがうまかったのだろう。結果、学問皇帝を作り上げた張本人と言えるw
  • さて、同じような名前の人物がもう一人。「謝慈」という人である。言ヘンがあるかないかの違いだけだが、詳しくは「謝慈」の項で。

 謝淵

  • 字は休徳、会稽の人。「会稽典録」によると、若いときから徳行に努め、自ら農耕に従事した。孝廉に推挙され、やがて建武将軍にまで昇進した。駱統の息子の駱秀が誹謗を受けていたとき、「なぜ皆、駱秀を救おうとしないのか」と嘆いたという。結局、駱秀の無実は証明されたが、それには謝淵の力添えがあったという。
  • 孫権期に呂壱の専横があった頃、謝淵は謝厷と共に、国家中心の経済制度改革を上奏した。これについて孫権は陸遜に下問。それに対する返答が陸遜伝に載っている。
    • 国家の根本は民衆であり、財貨も民衆によって生み出されるものである。民衆に与えることなく、民衆から財貨を引き出そうとするのは困難である。
    • よってまずは、民衆を富ませることに従事し、その上で制度改革を進めるべきである。
    以上が陸遜の返答である。結論から言うと「時期尚早」ということである。
  • さて、これだけしか記事がないので、この経済制度改革の中身については、想像の域を出ない。出ないのだが、どうもこの陸遜の返答は、孫皓末期の豪族たちが連呼する「農耕養蚕奨励」に重なる。豪族の立場から言うと農耕養蚕が盛んになれば自らも富むのだが、国家が直接経済を統制されると美味しくないので、あまり賛成はできない。よって「時期尚早」とお茶を濁したような感じを受けるのだが。

 謝姫

  • 孫覇の母。孫皓即位後に孫基・孫壱(孫覇の子)と共に会稽郡烏傷県に強制移住となった。
  • さて、孫覇の母ということは孫権の妻である。ということは皇妃として伝の立っている謝夫人と同一人物ではないか?と疑いたくなるが、謝夫人伝には子がいたという記述がない。孫覇の母が謝夫人であるなら、これはあり得ない。また孫権と結婚した時期を考えても孫覇の母とするのは、ちょっと無理がある。別人とみるべきだ。
  • ということは、「謝姫は孫権の子を産みながら、伝が立てられてない」のである。謝夫人が子がいないにも関わらず伝が立てられているのとは対照的だ。その理由は明白と言えるだろう。孫皓の父・孫和と孫覇は二宮の変の当事者であり、孫皓からすると父の敵だからである。よって孫覇の母の伝は立てられなかった。呉書が完成する際、かなーり強く孫皓の意向が働いているという証拠の一つである。

 謝景

  • 字は叔発。南陽郡宛の人。
  • 張昭の子、張承によって抜擢されたとあり、寒問の出であると考えられる。おそらく孫登付きの賓客として抜擢されたと考えられる。その後は、皇太子宮の人材の一人として才覚を発揮したようだ。孫登伝では、諸葛恪・張休・顧譚・陳表ら太子四友に次ぎ、謝景・范慎・刁玄・羊衜らの名前が挙げられている。また、胡綜には「綿密な議論が多方面に渡り、言葉によって紛糾した問題を解決できる」と評されている。
  • しかし、どうやら軽はずみな所もあったようで、孫登伝注・江表伝によると羊衜に「口はうまいが浮ついている」と評されている。陸遜伝には、謝景が、刑罰を優先し礼を用いるのはその後にすべきだとする劉廙の議論を称賛するので、陸遜は「礼が刑罰に優先するのは古来からのことであり、そのような議論を皇太子(孫登)に聞かせてはならない」と叱咤した、とある。劉廙は魏書で伝の立てられている人物であり、同じ南陽の人物として尊敬していたにしても、敵陣営の人材を称賛するのは軽はずみと言われても仕方あるまい。
  • その後、豫章太守となったとあり、豫章太守としては顧邵に次ぐ立派な太守だと評された。在官のまま死去とあるので、豫章太守が最高位である。孫登の死に際しては、悲しみに耐えられず、職務を放棄して葬儀に駆け付けた。葬儀の後、許可なく任地を離れた事を自ら上奏して処分を請うた。だが孫権からは慰問を受け、元の職務(豫章太守)に戻ることを許されている。

 謝煚

  • 謝夫人(孫権の妻)の父。後漢で、尚書令や徐県令を務めていた。
  • 謝夫人は呉夫人(孫堅の妻)によって孫権の妃として迎えられているのだから、謝氏は一定の力を持った豪族なのは間違えない。謝淵・謝厷・謝賛・謝譚らは、全て会稽郡(おそらく山陰)の名士であると思われる。

 謝厷

  • 謝淵と共に、孫権に経済政策を献策した人物。おそらく会稽郡山陰の豪族。
  • もう一つのエピソードが「呂壱をうまいことやりこめた」というエピソード。呂壱が専横を振るい、顧雍の過失を問い詰める上奏をしていた時、黄門侍郎(勅命の伝達官)だった謝厷は、呂壱に「顧雍殿の件はどうなりますかね?」と呂壱に尋ねた。呂壱が「処分は免れまい」というので、謝厷は「そうなると丞相の後任は誰になりますかね?たぶん潘濬殿ではないですか?」と言うと、呂壱もしばらくして「たぶんそうなるだろう」と答える。謝厷は「でしょうねぇ。でも潘濬殿は日頃から貴方のことをよく思ってません。遠くにいるから何もできなかったのですが、もし丞相になったらどうなるんでしょうかねぇ?マズくないですかね?」と言う。それを聞いて恐れおののいた呂壱は顧雍の件はうやむやにした・・・と、潘濬伝にある。
  • 経済政策の献策の件も含めて、非常に頭脳明晰な人物だったと思われる。

 謝宏

  • 234年に中書の陳恂と共に高句麗王・位宮の元に遣わされた。しかし高句麗はすでに魏から使者を斬るように指示されているという情報を手にした謝宏は,出迎えてきた高句麗の使者を斬り、30余名を人質とした。そのため、位宮は謝罪をし、馬数百頭を献上した。しかし謝宏の船は大きくなかったので馬80頭だけを積んで呉に帰った。
  • さて、これより面白いのが「呉の大銭」についてである。孫権伝注江表伝によると、246年に孫権は詔を下している。その内容は「謝宏はかつて大銭を鋳造すれは経済活動が活発になると進言し、私はそれを許可したが、近頃、民衆たちは大銭は不便だと感じているようだ。よって大銭の流通は取りやめる。個人で大銭を所有する者には、大銭を官に収めれば等しい対価を与えて損害を受けないようにする。」
  • これが事実なら、大銭の鋳造を進言したのはこの人物ということになる。奇しくも同じ謝姓で経済改革を進言した謝淵・謝厷がいる。おそらく会稽の同一系列の豪族であろうと考えられるので、このあたりの関連性が興味をそそられる。しかも謝厷と謝宏は字まで似ているので同一人物ではないかという噂もある。ただ謝淵・謝厷の進言は陸遜によって時期尚早と判断され実施されてない可能性がある。対して大銭は236年に「大泉五百」(五銖銭500枚に相当)が、238年には「大泉当千」(五銖銭1000枚に相当)が鋳造されており、確実に実施されている。つまり普通に読めば謝厷と謝宏は別人と考えるべきか?しかし厷と宏はウ冠があるかないかの違いだけであり、同一人物説も捨てがたい。だとすると、意外な大物である。
  • 以前にも紹介した事がある気がするが「コインの散歩道」というサイトの中に「三国志のコイン」というページがある。実際の写真があり、貴重な資料である。それを見ると呉の大銭は確かにでかい。でかいが、五銖銭が25.7mm 3.2gなのに対し、大泉五百は29.0mm 5.8g、大泉当千は33.5mm 6.5gであり、500陪・1000陪の価値があったとは思えない。銅の価値から言うと、せいぜい2~3陪である。これを五銖銭の500陪・1000陪の価値に相当させて流通させようというのだから、かなーり無茶がある。成功すれば実質経済力以上の利益が期待できる。孫権もかなりの熱の入れようで、大銭を鋳造した236年には、官僚・民衆から銅を買い上げ、偽貨幣の鋳造に対する罰則を設けている。
  • さて、問題は「なーんで謝宏は大銭の鋳造を進言したのか?」である。236年となると、前述のように、高句麗から馬80頭を持ち帰った後であり、謝宏の発言力はかなりあったと考えられる。公孫淵に国家威信をズタズタにされた後に、多少なりとも国家威信の向上に貢献しているからだ。で、謝氏の多くが経済政策を進言しているということは、謝氏にとって経済流通が盛んになることは利があったのだと考えられる。それは何だろうと考えると「銅山」ではないかと考えられる。呉には有望な銅山があった。だから魏より貨幣の鋳造には熱心だった。で、どこにあったのか?というと会稽郡らしい。で、謝氏がどこの豪族か?というとほぼ間違えなく会稽豪族である。つまり謝氏の一族は銅の流通を加速させることで、繁栄を築こうとしたのではあるまいか?おそらく銅山は国営であろうが、それを実際に掘るのは地元の豪族であり、それが謝氏だったのでは?という憶測が成り立つ。また呉夫人が謝夫人を孫権の妻にしたのも、このあたりに理由があったのではないかと考えることができる。
  • しかし、実際の銭の価値以上の流通規模を維持するのは、どう考えても無理があり、大銭は流通しなかった。五銖銭のペディアによると「大泉当千は実質的には五銖銭とほぼ同価値となっていた」とある。そこで、孫権は大銭の流通を禁止し、経済の混乱に歯止めをかけた。うまく行かないと見るや早々に撤回するあたりが孫権らしいw

 謝賛

  • 会稽郡山陰の人。彼も会稽豪族の謝氏であり謝淵・謝厷・謝宏らと同一系列の豪族だと考えられる。
  • 鍾離牧伝注「会稽典録」に「鍾離牧の兄・鍾離駰と、同郡(会稽郡)の謝賛、呉郡の顧譚は等しい名声があった」とある。

 謝慈

  • 字は孝宗。彭城国の人。会稽謝氏とは別系列の豪族だ。礼についての議論で知られ「喪服図」「変除」を著している。諸葛恪誅殺に乗じて孫奮が政権を奪取しようとした際、傅相(付き人・守役)だった謝慈が諌止しようとしたため、孫奮に殺害されたとある。
  • さて、問題は「射慈」との関係である。「射慈」は孫休の学問の師匠だ。で、「謝慈」も文化人である。うーん、臭うw こういう場合、十中八九、同一人物である。調べると、漢・三国期には「謝」と「射」は併用されていたようで、例えば、後漢書で射暠のことを謝暠と記している場面があったりする。
  • 元々、文化人として名声があり、そのため孫休の学問の師匠となり、最後は孫奮の傅相になっていたわけである。孫休が皇帝になるまで生きていたら、重用されていただろうに、残念。いや、孫休にとっては幸いだったか?生きてたら、孫休の学問入りびたりが、もっと酷くなっていたかもしれんww

 謝承

  • 字は偉平。孫権の妻、謝夫人の弟。博学で見聞が広く、一度見知った事は、生涯忘れることがなかったと、「会稽典録」にある。
  • 謝夫人が亡くなってから十数余年が経ってから五官中侍郎に任じられ、その後、長沙東部都尉、武陵太守に昇進した。「後漢書」130巻を著した。ただし現存の後漢書とは別の書で散逸しているらしい。三国志内には謝承後漢書の引用が見られる。

 謝崇

  • 謝承の子。揚威将軍になった。

 謝旌

  • 荊州制圧戦で大活躍した呉の武将。
  • 219年に関羽討伐の軍を動かし、呂蒙が南郡を制圧すると、陸遜は宜都太守の任に当たった。宜都は南郡へと続く水路の拠点であると同時に、この付近には異民族も多く存在していた。その水路を抑えるための水軍の将が李異、異民族対策を含めた歩兵隊の将が謝旌であった。李異と謝旌は宜都周辺の残存する劉備勢力の一掃に乗り出し、蜀の部将である詹晏・陳鳳、さらに房陵太守・鄧輔、南郡太守・郭睦らを打ち破った。秭帰の豪族である文布・鄧凱らが、異民族を従えて反旗を翻すと、謝旌はこれを攻撃し打ち破っている。
  • さて、謝旌だが、おそらく会稽豪族の謝氏とは別系統であろう。謝旌が活躍するのは219年~221年(夷陵の戦いの前。夷陵の戦いでは謝旌の名が出てこない)の短い期間に限られており、普通に考えて、地元の土地勘のある豪族であろうと考えられるからだ。会稽の人材がいきなり、荊州奥深く異民族が闊歩する地域で活躍できるとは考えにくい。

 謝譚

  • 会稽の名士。おそらく謝淵・謝厷・謝宏らと同一系列の豪族。
  • 吾粲が会稽太守に昇進した際、謝譚を功曹にしようとしたが、病気を理由に出仕しなかった。それに対し、吾粲は「龍も鳳凰も能力を発揮して初めて尊ばれるのであり、深く淵に潜ったままで良いはずがない」と告知するが、果たして出仕したかどうかは書かれていない。

 謝貞

  • 謝夫人の父・謝煚の弟。建昌県令を務めていた。

 謝斐

  • 虞翻が交州に配流された頃の豫章太守。虞翻の勧めで聶友を功曹に取り立てた。

 謝勖

  • 謝承の子で、謝崇の弟。呉郡太守となった。

 朱緯

  • 朱治の子。若死したとある。
  • 朱治の子として記載があるのは朱才・朱紀・朱緯・朱万歳の四名。朱緯は三男と考えられる。

 朱育

  • 孫亮期の会稽郡山陰の人。
  • 奇字を好み、特殊な文字を1000以上作り出したという。あれ?もう少し後に似たようなことをやった皇帝がいたなぁw 朱育は濮陽興とも関係が深いようだし、孫休は元々、会稽にいたし、孫休は、彼の影響を受けていると思われる。
  • 虞翻伝注「会稽典録」の中で、当時、会稽郡で門下書佐(書記)だった朱育は、会稽太守だった濮陽興の問いに答え、会稽の優れた人物について答えている。要するに会稽典録は会稽のお国自慢の書なのである。中身は会稽アゲアゲなので省略するが、会稽の地理や歴史を答えている場面もあり、それがなかなか面白いので記載したい。
    • 会稽郡の山地からは、鉱物・木材が採取され、河海からは魚・塩・真珠貝が穂風に取れた。つまり会稽は銅と塩が特産物だった。
    • 会稽とは、禹王(古代中国の伝説の帝)がこの地に群臣を集めたことから会稽と名付けられた・・という伝説がある。
    • 始皇帝は呉・越の地をもって会稽郡を置いた。その後、呉王に封じられた劉濞が反乱を起こすと、再び国から郡に戻り、呉に役所が置かれた。
    • 紀元前112年に東越国が廃されると、その地が冶県(東冶?)として会稽に属し、さらに紀元前24年には、東部都尉(太史慈もこれになった)が置かれ、役所は章安に移り、さらにその後、鄞→句章と役所が移転した。
    • 129年に浙江より北が呉郡・南が会稽郡となり、役所が山陰に置かれた。
  • もう一つのエピソードが鍾離牧(彼も会稽郡山陰の出身)についてである。鍾離牧が濡須の督であったころ、晋に対する積極的な行軍を行いたいと考えていたが、それを上奏することをためらっていた。朱育は「上奏すべきであろう」と言ったが、鍾離牧は、反対勢力が強いこと、皇帝(孫皓)の自分への信任に自信がないことから、上奏しても、うまく行かないだろうと述べている。
  • さて鍾離牧が濡須の督として積極攻勢を考え、しかもそれに反対する勢力が強いとなると、265年頃ではなかろうか?陸凱ら政権の中枢の豪族たちにより、武昌への遷都反対や、むやみな外征反対が述べられていた時期である。確かにこの時期に鍾離牧が積極攻勢を上奏しても、ひねりつぶされる可能性が高いだろう。その後、孫皓は晋への臣従を翻すのだが、おそらくその前後に鍾離牧は死去していると思われる。
  • 朱育は後に朝廷?に仕え、東観令(図書寮長官)となり清河太守を遥任し侍中となったとある。清河は冀州なので、この朝廷とは晋の事だ。占いや物当てが巧みで文芸百般に通じていたとある。

 朱琬

  • 朱治の孫。朱才の子。爵位を継いで部将となり、鎮西将軍まで昇進した。
  • 具体的な戦功については、272年の西陵の戦いに記述がある。晋の巴東監軍の徐胤が建平に向かうと、陸抗は水軍督の留慮と、鎮西将軍の朱琬に命じて、その動きを封じ込めさせたとある。陸抗が信任するのだから、優秀な軍人だったのであろう。

 朱恩

  • 孫亮期の散騎常侍(勅書の伝達係)。孫峻が諸葛恪を誅殺しようとしたとき、「今日の宴会の様子は尋常ではない。何か企みがありそうです。」という密書を諸葛恪に送った。というのも朱恩は諸葛恪の外甥(姉妹の子)だったからである。諸葛恪誅殺後、朱恩も一族皆殺しとなっている。呉で朱姓となると朱治系か朱桓系か・・と考えたくなるが、朱姓なんて結構メジャーな姓だから、この二系列以外の可能性もある。
  • さて朱恩自体は、それしか出てこないのだが、この件に関わる諸葛恪誅殺の経緯の方が面白い。なんせ誅殺の場面のかなーり詳細な記述が、本文と「呉歴」「呉録」のそれぞれで異なる経緯で書かれているのだ。
    • 本文。「張約・朱恩らが事態を諸葛恪に知らせる」→「諸葛恪は引き返そうとする」→「滕胤が現れ、押して参内すべきだという」→「迷った後、諸葛恪は参内する」→「宴会が進み、孫亮が退席した後、諸葛恪が誅殺される」
    • 呉歴。「張約・朱恩らが事態を諸葛恪に知らせる」→「滕胤が現れ、諸葛恪に家に戻るよう勧める」→「諸葛恪は、孫峻に何ができるかといい、参内する」→「誅殺される」。ちなみに孫盛の「異同評」が注釈の注釈として掲載されており、「諸葛恪と滕胤は密接な関係にあったのだから、滕胤は家に帰るよう勧めるのが自然の成り行きだ。諸葛恪の性格から見て(本文より)呉歴の方が優れている」としている。
    • 呉録。「孫峻が詔と称して諸葛恪を捕縛しようとする」→「孫亮は、私には関係がない、関係がない、といい、乳母が孫亮を奥に連れ出す」。裴松之注があり、本文や呉歴に信憑性があり、呉録のようなことはあり得ないとしている。
  • どれが正しいとかそういうことを論じる気はない。本文は韋昭の呉書からの転写だろうし、呉歴も呉録も、それぞれの主義主張に従って「盛ってる」のは確実だろうと思われるからだ。比べると、本文は孫峻・諸葛恪の双方とも貶める要素が少ない。もしかしたら韋昭の呉書の段階では、なんらかのベクトルがあったのかもしれないが、その中から主観を省いた物を陳寿が書いたのかもしれない。対して呉歴では、滕胤が比較的、常識人として書かれている。陳寿の本文では、かなりまぬけだ。呉歴では孫亮が馬鹿っぽくなっている。つまり、それがそれぞれの書物のベクトルを指示していて、本文では滕胤がサゲ、呉歴では諸葛恪がサゲ、呉録では孫亮がサゲの傾向がある書物だということなのだろう。

 朱紀

  • 朱治の子。朱才の弟。
  • 孫権は孫策の娘を朱紀に嫁がせ、朱紀を校尉とした。孫策の娘を嫁にもらった割には校尉までの記録しかなく、非才だったか早死だったかではないかと思われる。

 朱喬

  • 272年の西陵の戦いにおいて、愈賛と共に揚肇(晋)に寝返った。その後の記載なし。

 朱晧

  • 字は文明。朱儁の子。直接の呉の人物ではないが、分裂期の揚州情勢に深く関わるので記載したい。
  • 朱晧は豫章太守である。だが何度か述べてきたように、190年代前半の豫章郡の情勢は混沌としている。まず蜀書諸葛亮伝では、諸葛玄(諸葛亮の叔父)が袁術の命により豫章太守となった、とある。袁術が江東に手を伸ばしていた時期だから、193年~194年あたりだろう。それに対抗する形で漢王朝(曹操)は朱晧を豫章太守とする。そして太守の座を追われた諸葛玄は旧知であった劉表に身を寄せた、とある。
  • 注の献帝春秋では、諸葛玄を豫章太守に任命したのは劉表で、対抗馬として任命された朱晧は劉繇から兵を借りて諸葛玄を攻撃している。敗れた諸葛玄は西城に駐屯、朱晧は南昌に駐屯している。問題は西城がどこにあるのかだが、集解を見ると、南昌県の西とある。つまり、かなーり近くに駐屯しており、敗れたとはいえ、その力関係は拮抗している。また諸葛玄は197年に民衆の反乱で殺害され、その首は劉繇に届けられたとある。しかし諸葛玄の元にいた諸葛亮が荊州にいたのだから、諸葛玄が最終的に劉表を頼ったのは間違えない。つまり、諸葛玄は豫章から撤退したものの、死んではおらず劉表を頼った・・と見るべきか。当時、袁術残存勢力だった劉勲も、孫策に敗れ最終的に劉表を頼っているので、こういう流れは全く不自然ではない。行き場を失った袁術残存勢力の多くが劉表に流れたということである。
  • 話を移す。孫策は電撃的に丹陽から劉繇を追い出した。ほぼ同時に呉郡も朱治によって制圧され、行き場を失った劉繇は豫章に逃避する。195年後半の事である。劉繇伝注献帝春秋では、この時、朱晧は劉繇に兵を借りて諸葛玄を追い出した、とある。劉繇は彭沢に軍営を置いたとあり、献帝春秋を信じるなら、この当時、南昌に朱晧、西城に諸葛玄という状況で、豫章は分裂していたということになる。
  • 劉繇と朱晧は協力して豫章を奪回し、返す刀で丹陽を奪い返す手筈だったと思われる。ところが、ここで面倒な人物が出てくる。トラブルメーカー笮融である。笮融は朱晧を殺害して南昌を占拠する。別に孫策についた訳ではない。単純な野心である。劉繇は笮融を討とうとするも、逆に敗北。劉繇は、再度、笮融討伐を行い南昌奪回に成功するが、まもなく死去する。こうした混沌とした情勢があったので、孫策は余裕をもって会稽討伐に全軍を傾けることができたのである。
  • さて、ここにもう一人、事態をややこしくする人物を紹介するw 華歆である。華歆もまた、この当時の豫章太守なのである。華歆は馬日磾により豫章太守に任じられている。問題はこれが何年なのか?だ。馬日磾が徐州に来た時に・・とあるので、普通に読めば192~3年付近。これだとモロに朱晧の豫章太守任命時期にカブる。うーむwww 馬日磾による任命というのをどう読むか?だ。
  • 【仮説1】諸葛玄の敗退はかなり早い時期だった。
    諸葛玄が朱晧に敗れ。荊州に逃避したのが195年後半頃ではなく、もっと早い時期、劉繇が丹陽支配を確実にした頃、つまり孫賁・呉景を追い出した頃だったとする。この時期は劉繇は江東一帯の制圧に精力的に取り組んでいた時期で、朱晧に兵を貸したとしても不自然ではない。だとすると、華歆は諸葛玄の代役として任命されたとみることができる。馬日磾は袁術の元にいたのだから、袁術の意向が反映されていたとしても不思議ではない。ただ、この場合正式な豫章太守(朱晧)がいるのなら、華歆が朱晧を討伐に動くとは考えにくい。つまり劉繇の元にとどまっていたのではないかと考えられる。そして朱晧の死によって、劉繇の勧めにより、保留されていた豫章太守になった。これが華歆伝注江表伝のいう「私(華歆)は劉繇殿に豫章太守に任命された」という言葉の意味ではないか?
  • 【仮説2】諸葛玄の敗退は195年後半~196年前半だった。
    献帝春秋の記述を信じるなら、諸葛玄の敗退は劉繇が孫策に敗れてから後だ。劉繇が豫章に逃避したときに、朱晧に兵(笮融)を貸した。そして諸葛玄を追い出したが、笮融は返す刀で朱晧も殺害してしまった。そこで劉繇は、自分の元にいた華歆を正式に朱晧の後釜として任命した。
  • いずれにしても、馬日磾により華歆が豫章太守に任命されたというのは事実性が高く、華歆が豫章を実行支配できたのは諸葛玄・朱晧が退場してからなのは確かである。つまり任命と実行支配の間に隙間がある。よってなんらかの事情により豫章太守に任命はされたものの、華歆は劉繇の元にとどまっていた・・としか解釈しようがない気がする。問題は華歆がどういう立場で豫章太守を拝したか?である。個人的には仮説1の方が自然に思えるが。ここまで混沌としていると明確な答えなど出ようがない。推測するしかないのだが、この「豫章太守は誰か?」シリーズは麻薬的な面白さがある。たぶん数年したら、また違う考察をしているような気がするww

 朱才

  • 朱治の長子。字は君業。父の死後、爵位(毗陵侯)を継いだ後、偏将軍となった。
  • 注の呉書によると、物事に聡く騎射に巧みだったという。朱治が死去する前に武衛校尉となった。武衛というからには孫権の近衛であろう。郷里の者からは、若くして高位についたことから「我々に十分に目をかけてくれない」と評された時期もあったようだが、以後は郷里の者にも手厚く遇するようになったという。名声が聞こえるようになった頃に病気のため死去したというから若死であろう。

 朱志

  • 245年、馬茂の反乱に呼応し、一族皆殺しとなった。
  • 馬茂は元々は魏からの降将である。淮南の鍾離県長だったのに、呉に降ったら征西将軍・九江太守・外部督となったw 大盤振舞である。それだけ魏からの人材・民衆の流入は貴重だったということだ。魏もこういう人物が続出すると困る訳で、おそらく「孫権を殺してこっちについたら、もっと高位につけるぞ」的な遣り取りを経て、孫権殺害計画を練り上げたのではないかと思われる。
  • 問題はむしろ、同調者の方だろう。注の呉歴によると、兼符節令(符節令は少府の属官。兼が付くので何か軍属の役職もあったのだろう)の朱貞・無難督(言わずと知れた解煩督と並ぶ、呉の特殊部隊)の虞欽・牙門将(将軍の補佐職)の朱志らが同調している。虞欽は虞翻の一族の一人だろうし、朱貞・朱志も朱治系・朱桓系のいずれかだろうと思われる。かなり孫権に近い所にいる人間たちであり、発覚しなかったら孫権も命を落としていたかもしれん。
  • 孫権殺害計画は、孫権が射を行う(おそらく鷹狩とか)時に、孫権の周りに人がいない時を見計らって、馬茂が軍を率いて殺害。その後、宮中と砦に分かれて立て籠もり、魏の救援を待つというもの。うーん、これ殺害に成功しても、その後、殺される確率が高いのでは?計画が発覚したというのは、このあたりに危惧を持った人間が通報したのかもしれん。