【 交州刺史就任の謎 】
- (注)このテキストは2007年に一度書かれていますが、2014年のサイト消滅の際、データが紛失しています。ここにあるのは2015年に再度書いたものです。
- さて、孫輔伝によると、孫輔は盧陵太守になった後、「平南将軍に昇進し、仮節を授かって交州刺史の職務に当たった」と書かれている。ふーん・・そうなんだ・・と素通りしてしまいそうな記事だが、この記事、とんでもないことが書かれている。解析してみよう。
- まずは平南将軍から。平南将軍は三品。方面軍司令官であり格式は高い。魏で言うと羊祜などが任じられている。ちなみに孫策の最高位は雑号の討逆将軍である。孫権がこの平南将軍を超えるためには、209年に車騎将軍(代行)となるのを待たなくてはならない。
- 次に交州刺史。孫策の最高位は会稽太守。孫権が孫輔の交州刺史を超えるためには、平南将軍の時と同じく、209年に徐州牧となるのを待たなくてはならない。
- さて、では「誰が孫輔を平南将軍・交州刺史に任命したのか?」である。まず孫策は可能性ゼロ。孫策は会稽太守・討逆将軍が生前の最高位であり、それをはるかに上回る交州刺史・平南将軍に孫輔を任命することはできない。仮に自称させたとしても、部下を自分より高位に充てる意味がない。
- では孫権?そうだとすると、最低でも徐州牧・車騎将軍になった209年以降ではなくては無理。いや、牧や車騎将軍だったら刺史や三品将軍を任命できるかというとそれも違う。しかし自称させることならできる。そもそも209年の車騎将軍・徐州牧も自称(劉備は認めているが)に過ぎない。それにしても自分より高位の位を自称させる意味がないので、最低でも209年以降でなくては自称すらあり得ない。
- ところが209年となると、赤壁の戦いの後のことになる。孫輔伝にはこの後、孫輔が孫権を見限り曹操につこうとしたことが書かれているのだが、これはどう見ても赤壁前の事。つまり孫権も、孫輔を平南将軍・交州刺史に任命はしていない。
- では、赤壁前に孫輔を平南将軍・交州刺史に任命できる人は誰か?それはもう一人しかいない。決定的なのは「仮節を授かって交州刺史の職務に当たった」と書いてあることだ。当時、仮節を授けることができるのは朝廷を有している曹操しかいない。それ以外は自称することはできるが仮節を授けることはできない。(自称皇帝の袁術を除く)。しかも赤壁前なら、孫軍営は曹操に属しているので、全く何の問題もない。ただ「孫権より位が高い」ということを除いては。
- 曹操は一体なんのために孫輔を平南将軍・交州刺史に任命したのか?そのためには任命されたのかいつなのか?を解析する必要がある。交州刺史の歴史を追っていこう。
- 朱符・・196年頃、反乱により死亡。
- 張津・・朱符の後任として、朝廷から派遣される。部下たちの反乱によって死去。~203年頃?
- つまり、張津の後任として頼恭に対抗させる駒が孫輔な訳である。孫輔なら盧陵太守であり、交州も近い。軍事経験も豊富。確かにうってつけである。しかも、孫陣営のリーダーである孫権より高位につけることにより、孫陣営の動揺を誘発することができる。そもそも孫策期から孫陣営というのは、孫策・朱治・呉景・孫賁・孫輔・徐琨ら孫家に近い豪族たちによる横並びの連合軍と言って良い。この中で孫策の軍事能力が飛びぬけていたのでリーダーになっていただけである。それが孫権に引き継がれた時、なんの実績も軍事経験もない孫権がこのグループのリーダーであり得る保障はどこにもなかったのだ。しかし、中護軍・周瑜が孫権に拝礼し、会稽太守としての座を張昭が死守させたことにより、孫権はグループのリーダー足り得た。
- さて、この後、孫輔は使者を遣って曹操と通じたことが発覚?し、孫権は孫輔を幽閉した・・とある。注の「典略」にもう少し詳しい記述がある。
- 孫輔は、孫権が江東を維持していくことはできないと考え、孫権が東冶に行っている隙に、人を遣って曹操に挨拶をした。使者がこのことを孫権に報告した。孫権は東冶から戻ると、張昭と共に孫輔と面会した。孫権は「兄は愛想をつかされたのか?どうして他人(曹操)に挨拶したりするのか?」と聞いた。孫輔はそんなことはないと言ったが、孫権は手紙を張昭に投げ与え、張昭がそれを孫輔に示した。孫輔は弁解の言葉もなかった。孫権は孫輔の側近を斬首し、部曲を分割し、孫輔を東方に強制移住させた。
- さて、この経緯、いくつか腑に落ちない所がある。
- そもそも、この時期の孫陣営は曹操(朝廷)に属しており、孫輔が仮節を授かった曹操に挨拶をしたとして、一体なんの罪があるのかよく分からない。
- 会稽太守である孫権が自分の領内にある東冶に行くというのはありえないことではない。だとしても当時、孫輔は盧陵太守であり、孫権が東冶に行ったことがどうして「隙」なのか、よく分からない。
- 東冶から戻ると・・とあるが、一体どこに戻ったのか?孫権が戻るとしたら会稽郡都の山陰あたりであろう。しかし孫輔がいるべき場所は盧陵郡都の高昌である。どうもこの文は、呉(国)の首都である建業で会っていることを想定しているように思える。
- つまり、なんで孫輔が幽閉されたのか?その理由がはっきりしないのだ。この事は集解においても指摘されている。孫輔は反乱を起こした訳ではない。しかも、どうも「典略」の記事は、「呉という国が成立」していて「孫輔が、君主である孫権ではなく、(敵の)曹操と通じた」という解釈のように思われる。しかし、当時は呉国は成立しておらず、しかも孫陣営は曹操(朝廷)に属している。仮節を授かった孫輔が曹操に挨拶をしたとしてなんの問題も生じないのだ。
- つまり、孫輔が悪いのではなく・・孫権が孫輔を事実上「抹殺」したのである。なぜか?それはもう「自らの優位性を維持するため」だ。孫輔が曹操に宛てた手紙に何が書かれていたのか?にもよるが、文面を見る限り「挨拶」である。しかし、もしその挨拶に「孫権ではこのグループを維持していくのは難しい。私がリーダーにふさわしいのでは?官位も上だし。」とあったなら?それはもう、孫権からしたら事実上、孫輔を「抹殺」するしかない。そこに道理が入る隙はない。どんな理由であれ、正式な交州刺史を殺害することはできないから、「幽閉」し実権を奪ったのである。あるいは、孫輔が本当にただ「挨拶」しただけだったとしても、自分と同じ「太守」で「功績も官位も自分より上」な人材がいたとしたら危険極まりないのだ。
- 孫輔が幽閉された場所は「典略」によると「東方」である。しかし、この「東方」がどこを起点とした東方なのか?もよく分からない。もしこの記事が呉という国が成立しているという前提で書かれているならば、通常、呉国で東方というと建安郡(元の会稽郡)や夷州(台湾)だ。だとしたら、当時の会稽太守は孫権なので、自領内に孫輔を幽閉したということになる。そして幽閉するとしたら「東冶」だと思われる。(集解にも「東ではなく東冶(冶が抜けている)」という指摘がある。)東冶なら、会稽郡の交州寄りであり、名目だけの「交州刺史」を幽閉するにはもってこいだ。この幽閉になんの道理も正義も存在していないことは、孫輔の子孫が普通に「しかるべき地位についた」とあることからも分かる。孫輔に罪はなく、その子孫も処罰される謂れはないのである。そしてこの事件の数年後に孫輔は死去した。
- さて、孫輔の総評だが、孫賁同様「軍人としては優秀」としか言い様がない。政治力を判断できる材料が少なすぎるのである。しかし、結局は孫権に主導権は奪われたままな点を見ると、やはり孫賁同様、政治には向いていなかったのだろうという気がする。 ▲ -孫輔伝 了-
- (注1)ここでは、孫輔の交州刺史任命は203年前後としました。なぜなら、三国時代の通例として、刺史や太守が空席となった場合、即座に後任が指名されているからです。張津が死去したのが203年前後だと考えられるので、その辺りとしました。この場合、孫陣営は曹操に属しているので、孫輔は孫権に嵌められた感が強いです。ただ、この解釈を行った場合、兄の孫賁の離反騒ぎが208年(赤壁の頃)であるというのが、いささか腑に落ちません。弟が幽閉されているというのに、5年近く、なんのアクションもしていません。いや、そういう状況だから「なんのアクションもできなかった」のかもしれません。確かに豫章太守となった後の孫賁の動きが無さすぎます。
- (注2)そこで、もう一つの有力な解釈も記載しておきます。確かに203年頃に張津が死去した後、朝廷側の交州刺史は不在です。しかし、曹操は士燮に交州七郡の監督権を譲渡しており、それなりの対策は打っています。つまり「刺史は置かなかったが事実上の刺史(士燮)は置いた」と解釈することもできます。また士燮には、「劉巴と交趾の地位をどうするかという点で意見が合わなかった」というエピソードがあります。つまりこれは、交趾は事実上の交州監督権を持つかどうかという点の意見の相違と思われます。こうした点と、孫賁の離反騒ぎの時期を考えると、「孫輔が曹操とよしみを通じた」というのは、孫賁と同じく赤壁の頃と解釈することもできます。この頃であるなら、孫権は曹操と対立することを決定しており、その状態で曹操とよしみを通じたなら、幽閉も道理です。ただ、この解釈の場合、離反しようとした兄は不問、挨拶しただけの弟は幽閉・・と処分に一貫性がありません。また「典略」では、張昭が孫権につき従っていますが、赤壁直前であるなら、この二人の関係は微妙です。帰順を主張する張昭と、徹底抗戦に傾いた孫権が、曹操によしみを通じた孫輔に対し、仲良く処罰を与えるというのは、どうもピンときません。そういう点を踏まえ、ここでは203年頃に曹操によって交州刺史に任命されたと解釈しました。