【 兄譲りの軍事能力 】
- (注)このテキストは2007年に一度書かれていますが、2014年のサイト消滅の際、データが紛失しています。ここにあるのは2015年に再度書いたものです。
- 孫輔、字は国儀。孫賁の弟である。すでに孫賁伝で述べたように、孫賁と孫輔はかなり年が離れている。最低でも10、多ければ15~6歳は離れた兄弟だ。兄弟というより親子に近く、孫賁は大変、弟思いだったという。
- 孫輔の最初のエピソードは、「揚武校尉として孫策の江東攻略を助けた」という物。と言っても最初から参軍していた訳ではなく、孫輔単独の行軍としては、198年頃に孫策が丹陽西部7県の討伐(太史慈・祖郎らの討伐)を行った際、「袁術への押さえとして歴陽に陣取った」のが最初である。これが成人したからだとしたら、198年頃に15歳。生年は183年頃ということになる。ちなみに、孫権は182年の生まれ。ほぼ同世代である。ただし孫輔伝注「典略」において、孫権は孫輔を「兄」と呼んでいるので、孫輔の生年は180年前後とみて良いかもしれない。
- 198年の太史慈・祖郎討伐には、孫権も奉義校尉代行として参加しており、宣城(丹陽西部)で賊に襲われた孫権を守ろうとして、周泰が大怪我を負うという、ちょっと情けないエピソードがある。一方、孫輔は戦線において、結構重要な役割を果たしている。孫輔は歴陽で袁術の押さえとなるだけでなく「歴陽近辺に残留する民衆を呉の配下に入るよう説得した」とある。これは「歴陽近辺の豪農・豪族らに対し、孫策側につくよう(袁術を見限り、漢王朝から正式に認められている孫策に従うよう)説得した」という意味だ。それだけでなく「逃散していた者たちを呼び集めた」とある。これはおそらく、孫賁が袁術の下を離れた際、散り散りとなった元配下を糾合したという意味だ。確かにその役目は孫賁の弟である孫輔が相応しい。さらに孫輔は陵陽にて祖郎討伐にも参戦し功績を立てている。与えられた役目以上の仕事を遂行しており、兄・孫賁に劣らぬ優秀な軍人ぶりを発揮した。さすがに単独行動はしていなくても、孫賁と共に戦場を駆け巡っていただけのことはある。
- 孫策も孫輔の軍人としての資質を評価しており、劉勲討伐の際は、孫賁と共に、豫章から戻ってくる劉勲を彭沢で待ち伏せする作戦に参加し、「自ら先頭に立ち手柄を立てた」・・とある。この戦いは騎馬隊を率いての戦いであり、陣頭の猛将ぶりも発揮している。さらには豫章郡に入り、「僮芝撲滅作戦」に参加する。孫賁・孫輔・周瑜は、僮芝が病にかかると一気に廬陵に侵攻し、孫輔はそのまま廬陵を制圧した。この段階で孫輔は廬陵太守となっている。200年のことであり、孫輔が183年生まれだとしたら、当時17歳。孫策が会稽太守となったのは、23歳の時だ。盧陵太守就任は統治能力を期待してというより、反乱分子鎮圧能力を期待しての配置だと思われるが、それでも全く統治能力ゼロの人物には任せられる官職ではなく、新設とは言え、太守を任されるのだから、相当に優秀である。 ▼