【 宮女に縊り殺される 】
- 孫亮が生まれた242年というのは、まさに二宮の変の始まった年であった。国勢は孫和派と孫覇派に二分され、右往左往の大騒ぎ。結局、双方共倒れとなり、250年、孫亮が皇太子に任命される。彼女は天が与えたチャンスを見事つかみ取った。翌251年、潘夫人は皇后に立てられる。この時には神人が現れて「潘夫人を皇后にせよー。改元を行えー。」と脅迫文を送ったらしいので(笑)、今まで皇后を立てなかった孫権も観念せざるを得なかった。今までが今までだからなぁ。群臣も色々頭を使うwいや、潘夫人か?
- しかし、この潘夫人の持つ特質は、孫権好みの女性像とは異なる。孫権は思慮深く慎み深い女性が好きだ。孫権が健在であったなら、おそらくなんだかんだ理由をつけて潘夫人を皇后にする事はしなかったように思われる。だが、250年頃には孫権の健康状態は思わしくなく、国の将来を真剣に考えざるを得ない状況にあった。私は孫権の後半史は老害が出ているという説には否定的なのだが、それでも250年以降の孫権の所行を見ると、自分の年齢に対する危機感とか将来への不安は見て取れる。急に大赦だ改元だ・・が多くなるのだ。
- 251年5月。皇后に潘夫人を立てて太元と改元。大赦。
- 同11月。大赦。孫権、病に伏す。
- 同12月。諸葛恪を太傅(後見役)とする。徭役(軍事税)を減らす。
- 252年1月。孫和を南陽王、孫奮を斉王、孫休を虎林王として地方に出向させる。
- 同2月。潘夫人死去。神鳳と改元し大赦を行う。
- 同2月。例の自称・神様、王表に福を請う(病気の祈願を願う)がトンズラこかれる。
- 同年4月。孫権死去。
- ほぼ一年の間に大赦3回。改元2回。大慌てだw王表にトンズラこかれるに至っては喜劇である。呉書はこういう書かなくても良い事までしっかりと書いてあるという点が面白い。無視しとけ、そんな不名誉な事件はw
- さて、孫権が大慌てで次代に向けての準備を整えている間、潘夫人も自分の時代に向けての準備をしていた。潘夫人伝によると、彼女は孫権が危篤に陥ると、中書令の孫弘に太后親政の前例について質問している。なんと彼女、太后親政をやろうとしていたのだ。前例がない事ではない。劉邦の妻、呂太后は皇帝の母として政治の実権を握った。彼女もそれに倣おうと言うのだ。なんとも凄まじい野心である。もちろん、太后親政の可能性について考えるだけでは済まなかった。ライバルになりそうな夫人の追い落としもやっている。潘夫人伝によると、彼女は孫権の覚えのよかった袁夫人を讒言により殺しているのだ。時期が特定できないのだが、孫権が讒言を信じるとなると、かなり後半と見て良いだろう。歩夫人死去後は、琅邪と南陽の両・王夫人は死去しているし、残る不安材料は袁夫人だけという事になる。必然的に後宮に残る有力夫人は潘夫人だけという事になり、皇后に推される可能性が非情に高くなるのだ。
- だが、彼女は最後にこれだけの事をやってしまった報いを受ける事となる。252年、潘夫人は宮女たちにくびり殺されてしまった。これまた凄まじい事件である。相当に憎まれていたのだ。彼女は上しか見ていなかった。下を思いやるという特質に決定的に欠けていたのである。だが、時期が時期であり、ほどなく孫権が死去。潘夫人は孫権の墓に合葬された。孫権の墓に合葬された夫人は歩夫人と潘夫人の二人である。墓の中で頭を抱えている孫権の姿が目に浮かぶようだ。
- ここまで読むと、潘夫人は相当に酷い人間だったように思われる。だが、人間欠点しかないなんて事はあり得ない。彼女の数少ない美談?と思われる部分を挙げておこう。
- 潘夫人は孫亮が皇太子となると、一緒に織室に入れられていた姉を奴隷の身分から解放し嫁にやらせてほしいと願い出た。決して自分だけ幸せなら良いと思っていた訳ではないのだ。
- また、宮女にくびり殺された事情もよくよく見れば同情できる点もある。彼女は老いた孫権の看病を親身になってやっていた。ついには看病に疲れ果て、病気になって前後不覚となった所を宮女たちにくびり殺されているのだ。孫権が病気になった、あーラッキー・・という訳ではなかったのだ。まあ、カモフラージュという部分もあるんだろうが、自分が病気になってしまうほどなのであるから、老いて病に伏した孫権にとって実にありがたい話だっただろう。彼女の悪性と思われる特質は、そもそもの彼女の人生に原因があるように思われてならない。彼女は奴隷だったのだ。上を見ずにどうやって人生のモチベーションを持ち得ると言うのだろう。とかく悪い印象しかない潘夫人だが、女性の身でありながら、力強く、上を向いて闘い続けた女性像という部分を見る事もこれまた可能なのである。▲ -潘夫人伝 了-