【 孫綝抹殺計画 】
- 257年になると、孫亮も15歳となり、自ら政治を執り行いたいという意志を持つようになる。というより、15歳で成人という事か。つまり、孫亮が元服したので自分の意志で政治を決定していく権利を得た訳だ。逆に、それまで孫亮に代わって政治を取り仕切ってきた孫綝の当時の立場はどうだったか?というと、これはかなーり微妙な立場だった。というのも、それまでに呂拠・滕胤の乱、孫慮・王惇の乱と、孫綝に対する反乱が相次いだ上、諸葛誕救の乱では、文欽の子・唐咨・全家諸将・孫壱らをみすみす魏に投降させ、先鋒の朱異を考え方の不一致から殺害するという、司令官として最低の仕事しかしなえず、その求心力はかなり低下していたと思われるからだ。
- 孫亮が元服して以来、孫綝の上奏に反対する事が多かった事もあり、孫綝は寿春から帰還した後も、宮廷に参内しようとしなかった。逆に宮廷周辺の軍事力を独占する事により、自らの権限を守ろうとした。対して、宮廷内部では、孫亮が自ら指揮する親衛隊を新設。孫綝に対抗しようとする。孫亮が虎林督の朱熊と、外部督(宮廷周辺の防衛部隊)の朱損を抹殺したという事件も、この延長上にあり、要するに建業における軍事権限の対立である。
- この状態は軍事クーデータが起きる一歩手前の状況であり、孫亮が動くか孫綝が動くか、いずれにしても衝突は避けられない状勢だった。孫綝側の頼る部分は、宮廷周辺に配置した自らの親族の部隊であり、孫亮が頼る部分は、自らの外戚・全尚一家と宮中の親衛隊だった。そして、先に動いたのは孫亮である。
- 孫亮の孫綝抹殺計画に参加した人物として挙がっているのは、太常・全尚とその息子・全紀、将軍の劉丞(孫綝伝に出てくる劉承と同一人物らしい)、それに公主の孫魯班である。劉丞を除いて総てが外戚・全家関連の人間であり、仮に孫亮の逆クーデターが成功していたとしても、今度は外戚・全家とその他の勢力間の調整に苦労した事だろう。
- さて、今まで全夫人伝でありながら、全夫人の話がなかったのであるが、この段階でやっと全夫人の話が出てくる。孫綝伝によると、全夫人は孫綝の従姉の娘であったので、この逆クーデータ計画を孫綝に洩らしたというのである。これには多少の説明が必要だろう。実は全尚の妻は、孫綝の従姉だったのだ。つまり、宗室・孫綝と外戚・全家は血縁関係上、近い関係にあり、本来、敵対関係ではなかったのである。全家としては、基本的に孫綝と敵対する理由は薄く、皇帝・孫亮が動いたからそれに従ったという感は否めない。
- この孫綝抹殺計画の漏洩については、江表伝の注が載せられていて、それによると、孫亮が第一に孫綝抹殺計画を伝えたのは、全尚の子・全紀であり、その全紀が父・全尚に計画を伝え、全尚から妻の孫綝の従姉に話が伝わり、全尚の妻、つまり孫綝の従姉から孫綝に計画が漏洩したという事になっている。二説があり一方が注釈である以上、通例は本文を信用するのが筋ではあるが、裴松之は、孫亮は聡明で知られたのであるから、まず妻に知らせるはずがなく、まず全紀に知らせたと考える方が辻褄が合うという孫盛の説を載せている。この説を採るならば、孫綝抹殺計画が漏洩したのは全夫人の責任ではなく、全尚の危機管理意識にあると言って良いだろう。
- いずれにしても、孫亮の逆クーデータは漏洩し、孫亮は孫綝によって排斥された。この時の詳細を見てみよう。まず孫綝は、諸葛誕救出作戦失敗以降、朱雀橋の南に私邸を作りそこに住まいした。建業宮の造りが伝わっていないので、正確な事は分からないのであるが、もし建業宮が通常の宮と同じ造りであるならば、南門に当たる朱雀門が最大の門であるはずで、孫綝は朱雀門をいつでも押さえる事ができるように近くに私邸を構えたと見て良いだろう。同時に弟の孫拠に蒼龍門(東門)内にあって宿営に当たらせたとあるので、南の朱雀門の次に大きな門がこの蒼龍門(東門)ではなかったか?と推測できる。つまり、建業宮は南と東に大門があった。もし六朝時代の建康宮と同じような造りであったとするならば、建業宮は北には玄武湖、西には石頭丘陵があるはずであり、東と南に大きな門がありその二つが交通の要所であると考えられる。
- 孫亮は全尚に中央軍の都督(武衛将軍)である全尚に秘密裏に厳戒態勢を取らせると共に、自らは左右の無難軍と近衛騎兵を指揮して、一気に孫綝を包囲しようとした。だが、この計画が実行される前に、孫綝は自ら軍を率いて全尚に夜襲をかけ、弟の孫恩を遣って蒼龍門外で劉丞を抹殺、そのまま都を包囲した。まず、これを見て不思議に思うのは、中央軍都督(武衛将軍)であるはずの全尚がいとも簡単に夜襲を受け、その機能を果たせなかった事だ。武衛将軍は禁軍を統べていたはずなのだが、どうも孫亮の指示通り厳戒態勢を取っていたのか疑問である。では、彼は孫綝に盾突く気はなかったのか?というと、そうでもなく、逆クーデター失敗後は、零陵に強制移住させられている。つまり、全尚は状況の把握が甘かった。もしそうだとしたら、全尚が妻に事を洩らしたという説も可能性が高くなってくる。さらに劉丞が蒼龍門外で殺されている点を見ると、彼は変事を聞きつけ宮中に入ろうとした所を蒼龍門で宿営していた孫拠によって侵入を防がれ、さらに宮外から駆けつけた孫恩に挟み撃ちにされ殺された可能性がある。さらに朱雀門を孫綝が押さえれば、完全に宮中は包囲される事になる。
- 江表伝によると、完全包囲された孫亮は、「皇帝に逆らえる人間がどこにいると言うのだ?」と言い出陣しようとする。この言葉を見る限り、彼に孫休のように油断せさて逆を突くような行為は無理だっただろう。プライドの高さが伺えるからだ。また、二日間食事を取らず、妻の全夫人に向かって「お前の父親(全尚)が間抜けだから、俺は大事を失ってしまった。」と愚痴ったりしている。まあ確かに、この件についての全尚の行動は間抜けとしか言いようが無く、愚痴りたくなる気持ちは分かるが、全夫人にそれを言ってもかわいそうという物だ。それにしても、江表伝の記述が事実であるならば、孫綝伝の本文では、全夫人にその責任を負わせている様であり、もしかしたらこれ以外にも、女性に責任を負わせておけば八方うまくいくという事で、孫魯班らにもかなり責任を押しつけている部分もあるのではないか?という気もしないでもない。二宮の変から孫亮廃位に到るまでの政変にあまりに孫魯班が絡み過ぎているからだ。でもここでは話が逸れるので後述(汗)。
- 孫亮が会稽王、さらに侯官侯に格下げとなると、全夫人もそれに従い、侯官で暮らした。だが、孫亮は孫休によって毒殺?されている。呉録の注によると、孫亮の妻は頭が良く容姿に優れ、呉が平定された後、内地(建業か?)に戻ってきて永寧年間(301~302年)の間に死んだとある。全夫人が孫亮と同年代とし、さらにこの孫亮の妻が全夫人だとすれば、彼女は60歳ほどで死んだ事になる。政変の記述が多く、彼女自身の事が見えにくい全夫人伝ではあるが、この記述を見るに彼女はちきんと秩序を守れる女性だったと言えるだろう。▲ -全夫人伝 了-