【 全家衰勢 】
  • 孫亮体制の初期において、孫権の意図した挙党態勢は確かに成果を挙げている。と言うのも、252年に起きた東関の役では、諸葛恪・留略・全端・丁奉・呂拠らの奮戦により、大勝利を収めているからだ。太傅となった諸葛恪を外戚・全家などが補佐し、一致団結して闘った結果と言えよう。しかし、その後、諸葛恪は孫峻によって殺害される。詳しくは諸葛恪伝で後述。次いで滕胤も孫綝との争いの中、退場する。
  • 諸葛恪-滕胤ライン、つまり有力豪族系ラインが消失した事により、孫亮期の首脳部は、孫峻・孫綝といった宗室系と、全家に代表される外戚系が主流となり、全家はいよいよ興隆を誇る。全尚は滕胤に代わって太常・衛将軍となり、全一族で侯となった五人それぞれが軍権を持った。孫亮の近辺は、宗室と外戚で固められた訳だ。宗室と外戚で中央府が構成される事自体は、実は悪い事とは限らない。宗室と外戚が優秀であれば良いのだ。だが、孫峻・孫綝は・・・問題の多い宗室だった。では、全家はどうか?と言うと、これは決して無能ではなかった。全懌・全端などは武官として実績もあり、素行の面でも問題となる点はなかった。
    • (注)全一族で爵位を得ていたのがはっきりしているのは、永平侯の全尚、父の銭唐侯を継いだ全懌、父の全懌が東関の役で奮戦した功績により亭侯に封じられたという全緯、全琮と孫魯班の間に生まれた子である全呉(都郷侯)、の四人である。ちなみに全呉以外の全琮の子はいずれも孫魯班の子ではないと思われる。あと一人は誰?という事になるが、おそらく戦績から言って全端ではないか?と思われる。となると、全家から五人の侯が出たと言うのは、別に孫亮と全夫人の婚姻による物とは言い難く、それ以前からそうだったという事になる。むしろ、全家が孫亮の外戚となった事で変わった事があるとすれば、それは爵位を得ていなかったその他の全家の者たちも侍郎や騎都尉に任じられ、皇帝の側近になったという部分だろう。それは何か?というと全尚の一族に他ならない。
  • 257年に起きた諸葛誕の乱では、呉軍は諸葛誕救援の兵を寿春に差し向けるが、全懌・全端・全煕・全静・全緝・全翩ら多数の全一族がその主力として参戦した。呉に残った全一族は亜流に当たる全尚・全紀親子と、全緒の子・全緯と全儀くらいだった。そして、この諸葛誕救出戦が全家の盛衰の境界線となる。
    • (注)魏書・鍾会伝には全輝と全儀とあるが、集解注では全輝は全緯の事であるとされている。文意を読んでいくとどうもそれが正解っぽいので、ここでは全輝という人間はいなかったという説を採る。
  • 事の発端は、呉に残っていた全緯と全儀が、魏に逃亡した事に始まる。全緯と全儀は全琮の長子である全緒の息子であり、本来、全家直系であった。しかし、全琮の爵位(銭唐侯)は全懌が継いでいる。これは全琮死亡時にすでに長子の全緒はなんらかの爵位を得ていたからではないか?と思われる。全緒は東関の役で全端らと同様に奮戦しており、その功績によって長子(全緯)が亭侯となった。父がすでに爵位を得ていなかったならあり得ない処置だ。また、諸葛誕の乱の時には全緒の名が見られないという事は、全緒は東関の役から諸葛誕の乱の間の期間で死去している。この事がどう関連しているか?は不明だが、全緯と全儀は、全端・全懌らが諸葛誕救出に出向いている最中に、一族の中で訴訟問題が発生し、魏に逃亡した。この時、呉に残っていたのは全緯と全儀以外では、全尚の家系と全呉しかおらず、おそらく全家亜流でありながら孫亮の外戚として権限を持つに到った全尚と、全家総本家である全緯・全儀との間に不協和音が発生していたのではないだろうか?
    • (注)全尚は孫亮の外戚として太常・衛将軍にまで昇った重要人物でありながら、なぜか全琮との血筋関係はどこにも描かれていない。おそらく全琮の父・全柔以前の段階で枝分かれした亜流ではないか?と自分は思っている。もし全柔以降に枝分かれした家系であるなら全琮伝にその関係が描かれてしかるべきだ。
  • いずれにしても、全家の直系に当たる全緯と全儀はこの諸葛誕救出軍が出向いている時期に魏に逃亡した。これを鍾会は策略に用いた。鍾会は、全緯と全儀に文を作らせ、【呉は寿春が落ちないので、全懌・全端ら出陣している全家の諸将の家族を誅殺しようとしている。】と寿春城内に立て籠もる全懌・全端らに知らせたのである。全懌・全端らは無能ではなく、孫権期から数々の戦いを経験していた歴戦の将である。だが、この時、彼らはこの鍾会の策略を信じた。これは鍾会の巧さもさることながら、出陣している全家諸将の家族が誅殺される可能性が彼らから見てあったという事を示しているだろう。つまり、前述した全尚一派と全家本流の間の不協和音である。
  • この諸葛誕の乱は、司馬昭が【城の中と外の敵を迎え撃つ】という後の陸抗の西陵の戦いに準ずる高度な戦略を用いた事、呉側の救援軍が、寿春城内に入った部隊(文欽・唐咨・全家諸将)と、後で寿春に駆けつけた部隊(朱異・孫綝ら)に分かれているという点で非常に面白い戦いである。結果、文欽・唐咨・全家諸将らが寿春城内に入った事は裏目に出た。城の中に閉じこめられた挙げ句、城内の食料を欠乏させてしまったからだ。遊軍になったしまった訳だ。なんともまずい戦い方であり、呉側の指揮官が孫綝ではなく陸抗であったなら・・と思わざるを得ない。詳細はどこか別の所で。結局、諸葛誕救援に向かった全家諸将、全懌・全端・全煕・全静・全緝・全翩らは総て魏に投降した。(全煕は陰謀が漏れて誅殺されたとある。おそらく魏に投降する前に諸葛誕らによって誅殺されたのだろう。)この時点で全家本流は総て呉から消え去った。残っているのは全尚親子と、孫魯班が産んだ子である全呉。これだけである。見事に全家の中でも孫魯班ゆかりの人物だけが生き残っている事が分かるだろう。また別の視点で見るならば、力を持ちすぎた外戚を圧迫するという原理原則がここでも働いている。そういう意味で孫綝は宗室として孫家の権限を守る事にかけては、確かに一流の物は持っているのだ。もちろん皮肉を込めて言っているのだが。