【 幼き夫婦 】
- 孫亮の妻、全夫人は全尚の娘である。
- 孫権の妻の場合、最初の謝・徐夫人の二人を除いて、ほとんどが寒門の出であった。これは外戚というしがらみを持つのを孫権が嫌ったためであろう。外戚が発展した唯一の例外が歩家である。結局、その歩家が二宮の変に大きく関わってしまうのであるが。
- しかし、孫亮の妻である全夫人の場合、全家は孫呉政権において重要な位置を占める有力豪族であり、孫権の場合とはたぶんに異なる。一つには、偉大なる孫権死後、孫家と家臣団の関係再構築の必要があったため・・と考える事はできる。だが、事情はそれほど単純ではなかった。
- そもそもの発端はまたしても孫魯班。詳しくは孫魯班伝(外伝かあるいは雑談になるでしょう。)で述べたいので、簡単な略歴だけを示しておくと、孫魯班は孫権と歩夫人の間に生まれた娘。初めは周瑜の子・周循に嫁いだが、その後、全琮の妻となった。つまり、孫魯班は孫家の公主(直系の娘)であり、歩家・全家と深い関係がある。その孫魯班が孫亮の妻として抜擢したのが、全尚の娘・全夫人なのである。
- なぜ孫魯班が全夫人を孫亮の妻としたか?というと、それは孫亮を自分の派閥に組み込むためである。孫魯班にとって自分の派閥とは歩家であり全家であった。取りあえず二宮の変についての解釈は後回し(汗)。しっかりと考察してからでないと滅多な事は言えない。取りあえず先に行く。
- 全夫人が孫亮に嫁いだのは、250年に孫亮が皇太子になった時の事だ。つまり若い皇太子であるから、いざという時のために早目に子を作らせるに限る・・という事かw?まあ確かに直系断絶という憂き目の可能性を考えれば皇太子にも妻がいた方が良い。が、それにしても250年当時、孫亮は8歳である。それに対する全夫人の当時の年齢は記されていないが、おそらく同程度だっただろう。何の意味があるのかイマイチ計りかねる。少なくとも子が作れる段階になってからで遅くはない。つまり・・この婚姻は全家との婚姻関係構築そのものに意味があるのである。
- 全夫人を孫亮の妻としたのは、孫権の老害であると断定する事もできる。自分はしがらみを嫌がったのに、息子には成人前からしがらみを付けておくというのは矛盾しているからだ。それでなくても孫和と孫覇が失脚したのは、しがらみに雁字搦めになったからだという事も言えるのだから。しかし、別の側面で見てみると、孫権は孫亮と全夫人の婚姻の後、外戚の専横を防ぐための手だては確かに取っているとも言える。
- 幼帝を抱えたまま死去していく英雄という意味では国は違うが豊臣秀吉のケースが一つの指標になるだろう。彼が秀頼のために考えた体制というのは五大老・五奉行という挙党態勢だった。兎に角、幼帝であるから、一人の後見人に権力が集中しすぎると、君臣逆転の可能性は非情に高い。古来、その方式で君臣が逆転した例は山ほどある。孫権の場合も同様のケースであり、孫権もまた挙党態勢を目指したはずだ。その苦心の跡が、孫亮を支える中央府の布陣に見える。
- 太子太傅・・・諸葛恪
- 太常・・・滕胤
- 孫権は、この二人を孫亮を支える骨格に据えた。この二人は孫亮とはなんの血縁関係もない他人である。さらには二宮の変で亀裂の生じた陸家との関係の修復のため、陸抗に対し涙の謝罪を行っている。また、死後の話ではあるが、呂岱を大司馬に昇格させており、これに全家との婚姻関係を足せば、確かに挙党態勢を目指していると思える。決して全家専横体制を取った訳ではないのだ。むしろ全家の当時の当主である全懌(ぜんえき)は【父の跡を継いで軍を率いた】としか記述がない点を考えれば、孫亮と全家との婚姻関係はさほど問題のある外戚関係ではなかったと言える。とかく晩年の業績は否定されがちな孫権だが、決して老いて前後不覚になった訳ではないのだ。全家が興隆を誇るようになったのは、実は諸葛恪-滕胤ライン崩壊後の事である。▼