【 地味な弟? 】
- 孫静、字を幼台。孫堅の弟である。
- 孫家本流を除く、孫家亜流は大まかに分けて三つの家系に分かれる。一つは孫堅の兄、孫羌の息子(孫賁と孫輔)の一族、もう一つは族子、孫河(愈河)の一族、そしてもう一つがこの孫静の一族である。そしてこの三つの家系のうち、孫呉政権において最も強い勢力を誇ったのが孫静の子孫たちなのである。(もう一つ、孫堅の又従兄弟に当たる孫孺の一族がいるが、この家系は袁術に付き従い断絶している。)
- さて、孫静のエピソードというのは、はっきり言うと一つしかない。孫策の会稽郡攻略の際、固陵において王朗を打ち破る策を進言したというエピソードである。それ以外は守りを固めていたとか、故郷に帰ったとか、官職を退いて家でおっちんだとか、地味を地でいく人生を送っている(汗)。いかにも隠遁好きの控えめな好々爺という印象を受けるのだが、果たしてそれがこの人の本性だろうか?
- 孫静の父は呉書には名前は出てこない。一説には孫鍾。名前がないとややこしいので、とりあえずここでは孫鍾としておく。孫鍾には三人の男子がいた。長男が孫羌、次男が孫堅、そして末の子が孫静であった。まずは孫堅の黄巾討伐の際の孫家一族の様子を追っていこう。
- 孫羌は孫堅が黄巾討伐に参加する以前にすでに死去しており、その長男の孫賁がすでに名代として孫堅の行軍に従っている。その弟の孫輔は軍に参加している様子はなく、おそらく孫堅生存中はまだ未成年であったと思われる。つまり孫策と同様。孫河は当時はまだ愈姓であったが、孫堅の行軍に付き従って孫堅の近衛兵を指揮したりしている。前述の孫堅の又従兄弟の孫孺の一族では、息子の孫香が孫堅配下として行軍に参加、手柄を立てて郎中に取り立てられている。孫堅の息子たちは長男の孫策が行軍に参加しておらず、未だ未成年。つまり、孫家一族は成年男子はほぼ全員、孫堅の黄巾討伐、董卓討伐戦に参加した。
- では、孫静も孫堅の行軍に参加したのか・・・というとこれがノー。彼は同郷の者や一族の者たち五、六百人を糾合して後の守りを固め、人々はよく彼の指示に従った・・・と孫静伝にある。後に孫休が258年に出した詔に「役人の家で家事を収める者がいない事を憐れみ、五人いるうちの三人までが公事に当たる場合、一人は家に留め、届出米と兵役を免除する。」というのがある。当時の孫家は五人のうち三人どころか、成人男子総出の状態。孫静のような留守居役は必要だったのだ。
- では、孫静は当時の孫家の未成年者、つまり孫輔・孫策・孫権らを保護していたのだろうか?これがどうも答えはノーである。まず孫策。彼は孫堅が挙兵すると廬江郡・舒に移住。その後も孫策は独自で母・呉夫人と孫権ら弟たちを連れて行動しており、故郷に留まった(富春にいた)孫静とは動きを別にしている。つまり、孫静はあくまでも自分の一族、つまり息子たちと縁者のみを糾合してのであって、孫策ら孫堅の一族まで糾合して保護していた訳ではない。むしろ、孫策は周家の保護を求めて移住している。孫輔については記述がない物の、孫策と孫静そして孫賁のその後の動きを見ても、歩調は決して合っているとは言い難く、それぞれが独自の判断で行動をしている感が否めない。
- むしろ、孫静は【同郷(富春)を固めた】のかもしれない。同郷の者や一族の者たち五、六百人を糾合して後の守りを固め、人々はよく彼の指示に従った・・・という言葉は、孫堅の遠征中に孫静が富春の豪族としての地位を確立するに至った・・・という意味ととらえるべきだろう。でなければ、後の孫策の会稽攻略戦で孫静が呼び戻され、その際に孫静が一軍を率いて活躍する土壌はない。孫家が成り上がりの新興勢力で、孫堅ですら呉家との縁談と自らの武勇でやっとのし上がった事を考えれば、軍功のない孫静が基盤を確立する時間はこの留守居役の時にしかあり得ない。そう考えると、この男、なかなかにしたたかな男である。▼