【 一族繁栄の土台 】
  • 固陵の戦いにおいて、一瞬の輝きを放った孫静であるが、その後の人生は平穏そのものに見える。
  • 固陵戦直後、孫策は孫静に奮武校尉に任じて重要な任務に当てようとしたとある。これは孫静に軍部として各地を転戦させようとした物と思われるが、孫静はそれを辞退した。故郷に留まってその守りに当たりたいと言うのである。孫策にして見れば、孫賁らの去就がはっきりしない現段階で、孫静の軍事能力は決して軽視できる物ではなかったが、会稽攻略の功労者が故郷に戻りたいというのであれば、それを無碍にする訳にもいかなかったのであろう。孫静は拒否権を発動できるだけの功績は確かに打ち立てている。
  • そして、孫策が死去する200年まで、その状態が続いたと思われる。つまり孫静は無官のまま富春で過ごした。だが、孫権が当主になると孫静は官位を受け、昭義中郎将となった。これは200年に孫権が討虜将軍となった時に、孫静は同じくして官位を受けたという事だと思われる。そして孫静伝によると、その後、孫静は官を退いて富春の家で死んだ。
  • 少し話が前後するので整理する。
    • 196年 固陵の戦い→奮武校尉に任じられるが辞退。富春に戻る。
    • 200年 孫権、跡目を継ぐ→官位を受け、昭義中郎将となる。
    • ??年 官位を退く。
    • ??年 富春で死去。
    これが、孫静の分かる範囲での記録である。これを見ると孫静は二度官位を辞退・あるいは退いているのが分かる。一度目の奮義校尉の辞退は軍部として各地を転戦するのを嫌ったためであると思われる。だが、二度目の官位を退いた理由がどうも不可解である。そもそも、そんなに乗り気でないなら、200年の段階で昭義中郎将になるべきではない。
  • どうも変だと思って調べていったら、どうもこれではないか?と思い当たる部分が出てきた。孫静の長男・孫暠である。孫権が当主となった当時、孫暠は反乱未遂を起こしているのである。虞翻伝にこの事は詳しい。当時、虞翻は富春県長をしていたが、「不慮の事態が起こりかねない。」として孫策の葬儀には駆けつけず、任地に留まったまま喪に服した。呉書の注によると、当時、定武中郎将として烏程に駐屯していた孫暠は、会稽郡を自分の物にしようとして軍を率いてやってきた。会稽郡は守りを固め、孫権の指示を待ち使者を遣わせて孫暠に心得違いを告げさせた・・・とある。さらに会稽典録の注によると、その使者が虞翻である。
  • これらを総合すると、孫暠は烏程から軍を率いて会稽を占領しようとしたのだから、その途中で富春近辺を必ず通る。虞翻は富春県長だった訳であるから、そこで心得違いを孫暠に告げたという事だろう。そんな反乱を起こしても誰もついてこないぞ?と。待て待て。富春には孫暠の父・孫静がいるではないか?孫暠からすれば、反乱を起こすのであるから父も巻き込むのが当たり前だろう。当然、父・孫静に連絡を取っていると思われる。だとすればである。虞翻が孫暠の反乱の際、機敏な反応を見せた事も、孫策の葬儀にも駆けつけず、富春から動かなかったのも、なんとなく理由が見えてくる。具体的な反乱者の名前が分かっていたから動かなかったのだ。そしてその情報をリークした張本人こそ孫静。頼むから馬鹿な事は辞めさせてくれと。
  • さて、そうなると孫静が官位を退いた理由もある程度見えてくる。孫暠の反乱の責任を取っての事だ。孫暠は孫静の長男であり、その孫暠が反乱を起こしたのであるから、未遂に終わったとは言え、家系断絶の危機と言って良い。だが、孫静の家系は、次男の孫瑜・三男の孫皎・四男の孫奐と、脈々と続いていく。誰もその被害を受けていないのである。それはその非を孫静が官を退く形で一身で受けたからであり、孫暠の反乱の際、孫静はそれを援護する事なく、逆に押しとどめる方向に動いたからだ。
  • さて、こうして官を退き、富春で死んだ孫静であるが、その子たちは大いに孫呉政権で活躍をしている。長男の孫暠は反乱未遂事件でミソがついたが、次男の孫瑜、三男の孫皎、四男の孫奐は重要拠点の防御司令官として重要な地位に付いている。子が優秀だから親も優秀だとは限らないが、五人の子のうち三人までもが孫静に続き、孫呉皇室伝の冒頭に列記されている点を考えると、孫静は良い教育をした・・・という印象が強い。孫瑜・孫皎・孫奐の三人はそれぞれで異なる個性はある物の、人間性と実務性共に優れている点は共通しており、こうした土台は孫静による物であろう。孫静一族の繁栄は確かに孫静が土台を築いた物なのである。  -孫静伝 了-