【 容姿端麗なる教養人 】
- 呉書・劉基伝を読むと劉基の特徴として特筆すべき点はが三つある。一つ目は【容姿端麗】、二つ目は【教養のある士人】、三つ目は【孫権を諫めることができた数少ない人物の一人】という点である。
- 容姿についてだが、劉基伝にはっきりと【劉基は容姿が端麗で,孫権は彼を愛し丁重に遇した】とある。容姿端麗と言えば、孫策や周瑜、あとは荀彧などが候補に挙るが、荀彧は【優れた容姿・威厳のある風貌】であり、孫策は【英邁闊達・秀でた容姿】、二枚目としてのイメージが定着している周瑜でさえ【立派な風采】とあるだけである。果たして容姿端麗と書かれた人物は他にいるのだろうか?端麗とは【きちんと整っていて美しいこと(新辞林)】であり、ということは劉基は美しかったのである(笑)。
- 教養のある士人について言うと、これは父・劉繇から引き継いだエリートとしての教育が大きいだろう。おそらく劉繇は劉基に儒教の教養をたたき込んだはずだ。彼が14歳の時に、父・劉繇が死去するのであるが、劉基は劉繇の喪に服して礼に外れる事がなく、元・部下が持ってきた見舞い品も一つも受け取らなかったとある。14にしてこれだけの教養を持ち合わせているのもすごいが、元・部下が持ってきた見舞い品を受け取らなかったというのは、おそらく孫策への配慮もあると思われる。劉繇が死去した当時、すでに孫策は江東の支配権を確立しており、劉基が元・部下たちと交流を持てば、それはすなわち孫策への反意とも受け取られかねなかっただろう。そうした情勢への配慮も劉基はすでに持っていたということである。
- また注の『呉書』によると、【劉基は多くの苦難に見舞われ、苦労をなめ尽くしたが、ひっそりと世を処して道を楽しみ・・・・弟たちと共に暮し、いつも遅く寝て早く起き、妻たちも彼の顔を見ることは希であった。劉基はみだりに交友を広げず、その門をつまらない客が訪れる事はなかった。】とある。多くの苦難に見舞われた・・・というのは、おそらく劉繇が死去してから、劉基が正式に呉に招かれ、官位を得るまでの間の事だろう。劉基が正式に呉政権に参入して官位を得るのは、214年に孫権が驃騎将軍に任命されてからであり、劉繇が死んだのは197年~199年の間であるから、実に15年以上の間、劉基は微妙な立場にあったのであろう。
- 考えてみると、劉繇の死後、劉基はそのままならば速攻で殺害されても不思議ではない立場であったが、孫策の袁術からの独立と曹操の関係の回復に従い、劉基はとりあえず殺されることなく過ごすことができ(王朗が孫策に送った手紙からも劉基の立場を心配しているのがわかる。)、その後、赤壁の戦い以後の魏との緊張関係の中では、揚州刺史の息子である劉基はしばらく日の目を見ることがなく、さらに時が過ぎ、荊州を巡って呉と蜀が争い、魏・呉関係が修復されるに従い、劉基はやっと孫呉政権に参入してきた訳である。その間も劉基はつまらぬ策謀をせず、身を正して生活していたということであろう。名門・劉家の二代目もまた辛苦を舐めたということである。▲▼