【 呉における劉基の存在価値 】
- 劉基。字を敬輿(げんよ)。劉繇の長子にあたる。
- 前にも述べたが、この劉繇・劉基の伝が皇族を差し置いて、孫家の伝の後に書かれているのには、ある程度の理由があると見て良い。魏書と見比べてみると違いがはっきりする。魏書では、曹家の帝紀の次は皇后伝、ついで董卓・袁紹・袁術などの曹操によって滅ぼされた群雄たちのの伝となる。ところが、呉書においては、孫家の帝紀の後に劉繇・太史慈・士燮らの群雄たちの伝が続き、その後に皇后伝となる。(ちなみに蜀書では、劉備・劉禅伝の前に劉二牧伝として劉焉・劉璋伝が来る。この理由についてはちくまの解説が詳しい。)まあ、普通に見て、紀伝体の歴史書なら皇帝伝・皇后伝、ついで群雄伝か皇室伝が続くのが普通と見て良い。(ちなみに三国志の場合は、後漢書などスタンダードな紀伝体の歴史書に比べて変わっているようにも思える。まず本紀・志・表・列伝という形体を取っていない。特に地理や人口統計などを表わす志の部分がないのは特徴的である。)
- 話を元に戻して、なぜ呉書において、皇后伝の前に劉繇伝・太史慈伝・士燮伝があるのかという点を考えよう。まず、はっきりとわかるのは、董卓・袁紹・袁術ら魏書の群雄たちは曹操と中原の覇権をかけて争った群雄であるのに比べ、呉書の群雄たち、特に太史慈・士燮らは、呉の支配権をかけて孫家と争った群雄ではないという点だろう。士燮にしろ、太史慈にしろ、呉の発展に協力したという意味合いが強い。(特に太史慈なんかはなぜ呉の武将扱いでないのか不思議なくらいだ。)つまり、彼ら呉の群雄として扱われている三氏たちは魏書の群雄たちに比べ、実際の呉への貢献度がでかいのである。それが皇后伝を差し置いて先に彼らの伝が呉書で書かれている理由であると推測できるのである。
- さて、それでも疑問はある。劉繇はどうなのか?彼は孫策とまさに江東の覇権をかけて争った群雄である。彼が帝紀の後に真っ先に書かれている理由は何だろうか?その理由として重要になってくるのが、この劉基であると思われるのである。
- 孫家の場合、江東に覇を唱えたと言っても、家柄が悪い上に、正式な漢の官職としては非常に下っ端の身分しかもらっていなかった。つまり、国家としての正当性が非常にあやふやなのである。その国家としての正当性を得るために、孫策・孫権共々、大変苦労している。そこで孫権が注目したのが、この劉基であると思われる。彼は正式な揚州刺史である劉繇の長子であり、彼が呉政権に参入する事により、呉の正当性を主張できる材料になるのだ。(劉備も荊州征圧のために劉琦を荊州刺史にしている。そうやって初めて劉備が荊州を支配する正当性が出てくるのである。孫権と劉基の場合も同等と見て良いだろう。)
- その後、呉政権に参入した劉基への孫権の扱いも非常に丁重なものである。もちろん劉基自身の能力が優れていたという点もあるが、孫呉政権において、いかに劉基が重要であったかを示す材料とも考えることができるのである。▼