【 孫権の酒乱を正す 】
  • さて、孫権が驃騎将軍となるに従い、孫呉政権の一員として参入した劉基であるが、その役職の遍歴をたどっていくと、以下のようになる。
    • 214年、孫権の驃騎将軍任命に従い、驃騎将軍府の東曹掾(それぞれの府の事務を担当。この場合、驃騎将軍に任命された孫権の府の事務担当になる。)になる。同時に輔義校尉・建忠中郎将(これは軍の官職であり、実際の職務に付け加える官職と見て良いだろう。さほど高い官職ではない。)に任じられる。
    • 221年、孫権が呉王となると、大農(大司農の事。国家財政の収支を司る、いわば大蔵大臣。)となる。
    • 229年、孫権が帝位につくと、郎中令(光録勲の事。皇帝の顧問・参議・宿衛・侍従・接待などを統率。孫権が帝位に就く以前は郎中令と呼ばれていたが、帝位につくと共に光禄勲に改名された。)に異動し、分平尚書事(役職不明?尚書とつくから、おそらく尚書令のような仕事と思われる。尚書と言えば、まさに政権の中枢を担う役職である。)となる。
  • そして、その後49歳で劉基は死去する事となる。こうしてみると、劉基と言えど初めから高い官職で迎えられたのではなく、将軍府の事務担当で真価を発揮し、その才能が認められ大農・光禄勲といった要職に就いていった事が分かる。決して教養だけの人物ではなかったのだ。
  • 劉基がいかに孫権の信頼を得ていたかを示すエピソードがいくつかある。まず有名なのが【虞翻のガンコ親父が殺されかける事件】だ(笑)。虞翻のガンコ親父ったら、宴会で孫権が酒を注いで回っているのに、何が気にくわなかったのかワザと泥酔したフリをして受け取らず、孫権が虞翻の前から立ち去ると、イケシャアシャアと座り直して談笑を始めた。(そりゃ孫権でなくても怒るわな^^;)それを見た酒乱皇帝(笑)孫権がただで済ますはずがない。
    「テメー!!ぶっ殺したる!!」
    ってな訳で剣を手にとって斬り殺そうとした。そういう場面でも劉基は落ち着いたもので、酒乱皇帝(笑)を優しく抱き留めて
    「お酒の席で人を殺したりしたら、相手に落ち度があったも、悪名になりますよ。人々を失望させてはなりませんよ。」
    と言う。でも酔っぱらっている孫権は、
    「バッキャロー!!曹操だって孔融を殺したじゃねーか。俺が虞翻を殺して何が悪いってんだ!!」
    とまあ、正論なんだか開き直りなんだかよく分からない事をのたまっている。それに対して
    「曹操が立派な人物を殺害した事は、みんな非難しているでしょ♪なんで孫権様が彼と同じ事をしなくてはならないのでしょう?」
    と劉基は実に冷静に諭したのである。それを聞いてやっと孫権も「ま、そりゃそうだ。」となった。
    で、これには後日談があって、この後孫権から「私が酒を三杯飲んでから、人を殺すと言い出してもそれは無効だよん♪」という前代未聞の珍指令が出された(笑)。要するに孫権が自分で酒乱だと認めたわけだ。それを認めさせたのは誰あろう劉基。これがなかったら孫権は酒の席でガンガン人殺しをしていたかもしれない(笑)偉いです劉基様♪
  • 大体、孫権を諫められる人物と言えば、諸葛瑾・張昭が二大巨頭だが、劉基のそれは諸葛瑾に近い。(張昭の場合はまさに死を賭けた諌言という感じ。人格と弁論の正しさで孫権を諫められるのは、諸葛瑾のそれに近いだろう。)これは日頃から孫権に人格・能力共に認められていないと不可能な事である。が、さらに付け加えるならば、劉基のバックボーン(元・揚州刺史の長子)があったからとも言えるかも知れない。
  • 孫権が劉基を重用したエピソードとしてもう一つ。
    ある暑い日に船の上での宴会が開かれた。所が急な雷雨となり、孫権は自分の上に蓋(大きな雨避けのパラソル)を開く。こういう場合は普通、孫権しか蓋をさしかける事はできなかったのだが、孫権は劉基にも蓋をさしかけるように命じたのである。もちろん他の人たちは傘を開く事は許されず、濡れっぱなしである。いかに孫呉政権にとって劉基が重要な人物であったかを示す逸話と言えよう。
  • さて、劉基が死んだ年を逆算で求めて見よう。確認できるのは【49歳で死んだ】事と、【劉繇の葬儀の時に14歳だった】事。劉繇の死は197年~199年の間と特定できる(孫策の江東征圧が完了し、孫策が死ぬまでの間である。)から、その時14歳とすれば、死んだのは232年~234年の間の事となる。丁度、孫権が公孫淵事件に巻き込まれ、失態を犯していた頃だ。劉基が健在ならどうだっただろうか?
  • さらにもう一つ。どうも劉基には男子は生まれなかったような感じである。というのは、劉基伝の中に彼の子孫の名がなく、ただ【孫権は孫覇の嫁に劉基の娘を娶らせた】とあるからである。孫権は彼女に対して、都に屋敷を賜り、季節ごとの贈り物は全琮や張昭と同様であったと言う。これはおそらく、その娘に対して・・・と言うより、劉基の死を惜しんで・・・という意味合いが強かっただろう。さて、孫覇と言えば例の二宮の変の当事者である。もし劉基が生きていたなら、孫覇派に組していただろう事は想像に難くなく、そういう意味では劉基は良い時期に死んだとも言えるかもしれない。 -劉基伝 了-