【 孫策伝との食い違い 】
  • 呉夫人伝内の付伝として記述されている呉景伝は、孫策伝と微妙に異なる記述が多い。時系列に沿って、孫策伝と比較して見る。
  • 孫策は、丹楊太守となった呉景の元で居候をしていた。孫策伝では、その呉景の元で孫策は手勢数百人を集めたが、丹楊近辺の賊である祖郎の襲撃を受け壊滅している(江表伝)。しかし、呉景伝では、孫策は旗下の呂範・孫河らと共に呉景と共同して祖郎を討ち、祖郎は逃亡した事になっている。だが、後に孫策は丹楊平定後に祖郎討伐を行なっており、この時期に祖郎が討伐されたとは思えない。その他にもいくつか食い違いが見られるが、取りあえず先に進む。
  • 丹楊太守となった呉景は、孫策が居候となるちょっと前に、揚州刺史となった劉繇を曲阿に迎えるという役を行なっている。この事からも劉繇は当初は袁術と反目する立場で赴任していない事は分るのだが、その後、劉繇は反袁術の立場を明らかにし、丹楊から呉景・孫憤を追い出している。とは言っても実質上の丹楊の統治権・軍事権は呉景が持っているのは明かであり、劉繇が上手に呉景らを排したと言えるだろう。逆に呉景らの立場から言えば、多少情けない話になる。当然、袁術は失地回復を目指して、呉景を督軍中郎将に任命して孫憤と共に、劉繇軍の部将である張英・樊能・于糜らを討たせるが、これが上手く行かない。そうこうしている内に、孫策は袁術に直接士官して、袁術の元で廬江太守の陸康を討伐するなどの功績をたてる。そこまでが、孫策の江東征圧以前の流れである。
    • (注)呉景・孫賁からしてみると、揚州刺史である劉繇から「丹陽太守は○○に変更する。呉景・孫賁は寿春に戻り、袁術殿の元に戻りなさい。」と命令されたら従うのが筋である。で、劉繇は揚州刺史なのだから、当然、呉景に代わる丹陽太守を任命している。だが、それが誰なのか分からない。劉繇が指名した丹陽太守は誰なのか想像してみよう。
      当時、劉繇は曲阿にいた。本当の州都は寿春だが、そこには袁術がいるから、曲阿を仮の州都としたと思われる。ということは丹陽の郡都は別にある。で、それはどこかを考えると、秣陵(後の建業)ではないかと思われる。他に候補地が見当たらない。
      ということは、当時の丹陽太守は薛礼で、丹陽都尉が笮融なのかもしれない。薛礼は彭城県の相だった人物。太守として申し分ない。と考えると、薛礼は秣陵城から出ず、笮融が秣陵の外で孫策を迎え撃ったのも頷ける。薛礼は太守だったから、ごく普通に郡都に籠った訳である。そして軍権を持つ笮融が孫策を迎え撃った。なるへそ。別に「外で笮融が孫策を足止めしているうちに薛礼が城を出て挟み撃ちにする、あるいは軍の到着を待って一斉攻撃に移る」なんて、大層な戦略があった訳ではないのかもしれない。牛渚で樊能・于縻はすでに敗北し、囚われの身。軍事経験のない薛礼は守備兵を固めて郡都の秣陵に閉じこもった。で、孫策を迎え撃つ役目は、都尉の笮融が受け持った。その笮融は初戦で戦意喪失し、深ーい砦を築いて閉じこもった。なんのことはない。三つの軍があるように見えるが、どれ一つ連携していない。そりゃ負けるわ。
  • 袁術の元で功績を立てた孫策は、呉景・孫憤への加勢を申し出る。劉繇の存在は袁術にとって無視できない物に成りつつあり、孫策の申し出は袁術にとって渡りに船だった部分もあるだろう。そういう訳で、孫策は折衝校尉・殄冦将軍に任命され、劉繇討伐軍に加わる。この時点で呉景は丹楊太守・督軍中郎将であったが、丁度この頃、周瑜の叔父である周尚が袁術の任命で丹楊太守となっているため、呉景はすでに丹楊太守ではなかった。丹楊を失った責任を取らされた形になる。また、この時期、袁術は劉繇に対抗する揚州刺史として恵衢(けいく)を任命しており、どうやら孫策の劉繇討伐軍参加を始め、それまでの劉繇対策を一新した時期らしい。こういう所を見ると、袁術は結構本腰を入れて劉繇討伐を考えていたのではないか?と思われる。
  • 問題は劉繇討伐軍の指揮系統である。この時点で孫策は将軍、呉景は中郎将であり、孫策の方が上官に当たる。ただし、呉景は以前からこの討伐軍を指揮しており、呉景の立場から言うと、その後の孫策の江東征圧は、呉景が袁術から任じられた討伐命令の続きでしかない。それが証拠に呉景伝では、孫憤と共に張英・樊能らと対峙していた事と、孫策が江東征圧を開始して、笮融・薛礼らを打ち破った事、さらには孫策が牛渚で負傷した事などが同一の軍事行動として書かれており、そのいずれもが呉景が指揮系統を保っていたかのような書き方になっているのである。しかし、孫策伝を読めば、指揮系統は孫策が握っていたのは間違えなく、孫策の方が上官に当たるのであれば、呉景伝の記述は実にいい加減ということになってしまう。さらに面白い事に、牛渚の攻防までが同一の軍事行動として呉景伝では書かれているのに、曲阿での劉繇との戦いで、初めて【(呉景は)引き続いて劉繇の討伐で(孫策に)従い・・・】と別の軍事行動として描かれているのである。
  • このあたり、孫策伝と呉景伝で微妙に記述が食い違い、不思議な印象を受けるのだが、これは裏を返せば、孫策の討伐軍と呉景らの討伐軍の指揮系統が違っていたために起こった現象ではないか?と考える事ができる。孫堅が死去した段階で、呉景ら揚州豪族は孫家軍閥とは別の部隊として切り離されており、孫策が劉繇討伐軍に参加して、さらに呉景より上官に当たるとしても、当然、軍としては別系統なのである。要するに共同軍であると言って良い。だから、袁術が呉景に張英・樊能らの討伐を任じていた以上、初期の孫策の軍事行動は、呉景の立場からすると同一の軍事行動であるのだ。この事が、この後の孫策と呉景・孫憤らとの微妙な距離感に繋がってくる。