【 丹陽太守呉景 】
  • 孫堅の妻、呉夫人の弟。
    孫呉史上の外戚第一号である、と言って良いだろう。家柄が良くない孫堅にとって、呉夫人との結婚の実利的プラス面は、呉郡の豪族である呉氏の協力を得られるという部分であり、その呉氏の力を戦場で発揮できる人物は、呉景をおいて他にいなかった。そういう意味で初期の孫家軍閥の中では呉景の占める重要性は大きかったようだ。
  • 孫堅旗下で黄巾討伐及び、董卓攻撃軍に参加したメンバーの官位を見るとそれがある程度見えてくる。孫堅旗下では、程普・黄蓋・韓当・孫憤、それに朱治・呉景・徐琨などがいるが、一族の孫憤は別にして、程普・黄蓋・韓当ら子飼いの武将たちと、朱治・呉景・徐琨ら、揚州の豪族たちとの待遇の違いははっきりしている。程普ら子飼い武将たちは別部司馬(別働隊隊長)が関の山であるのに対して、朱治は長沙都尉・督軍校尉、徐琨は偏将軍、そして呉景は騎都尉に昇進しているのである。これらの官位はそのまま、朱治・徐琨・呉景らの軍における重要性に比例していると考えられ、つまり軍の編成上、呉景ら揚州豪族の占める役割は大きかったと考察できる。
  • やがて孫堅が死亡すると、孫呉軍閥は孫憤が引き継ぎ、袁術旗下に治められ解体を余儀なくされる。ここで孫堅死後の孫堅軍閥武将の経緯を追ってみる。
    • 程普・黄蓋・韓当
      その後、孫策の江東征圧に参加するまでの経緯は不明。筋的に考えれば孫堅軍閥を引き継いだ孫憤に従って、孫策の江東征圧以前から対劉繇戦線に参加していたのではないか?と思われる。
    • 孫憤
      孫堅死後、軍団を引き継ぎ一時は豫州刺史となったが、その後左遷?され、丹楊都尉として呉景の下に付けられており、その影響力の低下が見られる。
    • 朱治
      同様に袁術旗下に収まるが、明らかに孫憤とは軍団を別にしている。そういう意味でも孫堅死後は孫憤率いる孫家本隊と、朱治ら豪族の部隊は別の部隊として扱われているのが分る。それは呉景にしても同様のはずで、呉景の部隊と孫憤の部隊は別扱いだった。さらに呉郡都尉になった経緯も、馬日磾のご指名である可能性もあり、朱治の言動から言っても、袁術勢力とも一線を引いた形で接しているような感じを受ける。
    • 徐琨
      孫堅在命中から、旗下の中で唯一?将軍職に任じられる(その頃の孫堅もただの雑号将軍であり、よく考えればこの扱いは破格。)。その後、孫策の江東征圧に参加するまでの経緯は不明。ただし、袁術旗下となった孫憤・呉景らとはどうも違う経緯をたどっているように思え、彼だけは袁術旗下に入らなかった可能性も考えられる。
  • さて、本題の呉景であるが、実は孫堅死後、袁術旗下として最も活躍したのは呉景であった。丁度その時期は、袁紹と袁術の二袁の勢力争いが激化しており、丹楊太守の座を巡っても、袁紹・曹操系列である周昕が丹楊太守に任命され、曹操の募兵に協力したりしている。つまり、反袁術の立場の太守だった。呉景はその周昕を袁術の命を受けて攻撃、見事撃退に成功している。そして、そのまま丹楊太守に任命され、孫家本隊であるはずの孫憤は呉景の下で丹楊都尉となっていたのである。つまり、孫家と呉家の立場はこの時点で逆転しており、孫家は呉家の親戚としてその下に付けられていたとも考える事もできる。孫策も同様に呉景の元で居候状態であり、実質上の主人は呉景であったと言えるだろう。董卓を洛陽から追い払った功績のある孫堅軍閥に対して、この扱いは酷いじゃないか?と思う人もいるかもしれないが、これは特別、袁術が非道という訳でもないだろう。例えば、周瑜にしてもあれだけの功績を挙げていても、死後その子孫が重用された訳でもない。特殊な事情でもない限り、功績はその人一代の物なのだ。孫憤と呉景を比べて呉景の方が功績が上なら、呉景が上に立つのは当たり前なのである。