【 政略の狭間で 】
- 孫策が劉繇討伐軍に参加してからは、連戦連勝となり、ついに劉繇は曲阿から逃亡。豫章に逃げ込んだ。こうなると、呉景・孫憤らの袁術からの指令は果たされ、お役ご免となり、本拠の寿春に戻って報告をする必要がある。当然の事だ。これは孫策とて同じであるが、なぜか孫策は戻ろうとしない。むしろ、続けて呉郡・会稽郡に攻め込もうという勢いだ。確かに劉繇は揚州刺史であるので、これを討伐するのであれば呉郡・会稽郡にも侵攻する必要もある。しかし、それならば、劉繇が逃げた豫章の攻撃の方が先決であるはずで、孫策の行動はこのあたりから怪しくなる。その理由は【 孫策伝13-独立への布石- 】で述べているので重複はさけるが、要するに、袁術からの独立を模索する孫策にとって、より多くの土地を得ておく事が最優先だったのだ。だから丹楊郡を征圧したくらいで、止まる訳には行かなかった。また、完全な袁術との反目は先延ばしする必要もあり、そういう意味で非常に難しい綱渡りを孫策は行なっている。
- そこで孫策が打った手は、呉景・孫憤・周瑜ら袁術の兵を使って討伐軍に参加した部隊を、孫策本隊から切り離し、独力で呉郡・会稽郡を支配するという道だった。だが、純粋軍事的には、兵力のある呉景や孫憤・はたまた周瑜の部隊を切り離すのは、有利な事ではなく、現に会稽郡攻撃はそれまでの快進撃とは異なり、苦戦を強いられている。だが、それでも、孫策は、独力で土地を得る必要があったわけである。また、その孫策の独断専行を非難して、逆に孫策を問いつめるだけの勢力的余力は当時の袁術軍にはなかったようだ。徐州を巡って、呂布・劉備らと抜き差し成らない状態にあったからである。
- そういう訳で、【袁術軍の部将である】呉景は、丹楊征圧後は、寿春に戻って戦果の報告をし、取りあえず江東征圧の任務から解かれる事となる。袁術の元に戻った呉景は広陵太守に任命され、徐州方面の軍権の一端を担う事になった。同時に孫憤も九江太守に任命されており、このあたり袁術の人事は信賞必罰で分かり易い。功績を挙げたら官位が上がるというわけで、もしかしたら袁術はこの手の人材活用は結構マトモなんじゃないか?という気すらする^^;。
- しかし、袁術が自滅への道をたどり始めると、呉景は袁術に見切りをつけたようで、孫策が袁術との関係を破棄すると、広陵太守の座を早々に放棄して孫策の元に戻る。同時に孫憤も苦難の末に孫策の元に戻るのだが、二人の決断力を比べると、呉景の方がすっきりしており、このあたり、呉景と孫憤の人物の差を比べれば呉景の方が上のようだ。そういう訳で、呉景は正式に袁術との関係を切り、孫呉政権に参加した。孫策の方でも呉景を重用し、再び丹楊太守の座に就ける。徐琨伝でも、呉景は思いやりのある統治をして丹楊の民に慕われていた、とあり、統治能力では呉景は優れていたようだ。
- その後、孫策は曹操と接近し、198年に正式な官職を得て、討逆将軍・呉侯となる。しかし、孫策はすんなりと将軍になれた訳ではなかった。数回の遣り取りを経てやっとなれたのである。この辺に曹操の意地悪^^;?な面が見える。実は、先に孫策旗下であるはずの呉景の方が揚武将軍になっているのだ。呉景にこの官位を与えたのは、197年に命を受けて派遣された王誧であり、その王誧は孫策には騎都尉・鳥程侯・会稽太守を与えただけだった。孫策がそれでは釣り合わないとクレームをつけ、その後、仮の明漢将軍となったが、あくまでも仮の事である。しかも明漢将軍というのは、前例がない由緒のない将軍職。
- これに対して、呉景の揚武将軍というのは、雑号将軍の中ではある程度の由緒のある将軍職で、魏では張繍・蜀では法正なぞが任命されている。それに対して孫策がこれより後で任命された討逆将軍というのは、魏では文聘・蜀では呉懿などが任命されており、どちらかというと揚武将軍の方が格式が高いのである。これでは孫策が騎都尉の任命に不満を述べるのも当然の事だ。逆に言えば、こうして君臣の間に官位の不釣り合いを発生させ、内部分裂を誘う目的もあったのかもしれない。
- 呉景は外戚である。外戚というのは中国ではあまりに権力を持ちすぎると、返って弊害となる事が多く、呉景もまた孫呉政権において、あまりに権力を持ちすぎるのを敬遠された感がある。というのも、江東征圧戦ではこれほど活躍した呉景だが、その後は何も記されていない。どう見ても孫策や孫権の政治判断の場面になんらかの役割を果たした形跡がない。
- 203年に呉景は丹楊太守のまま、死去した。その後、丹楊太守の座は孫一族の孫瑜に替わり、呉景の子孫は孫呉史上で重責を担う事はなかったのである。▲ -呉景伝 了-