【 富春の有力豪族 】
- 徐琨は呉郡・富春の人。
- 徐夫人伝でも書いたが、徐家と孫家の関わりは古い。徐琨の父である徐真は孫堅と交友があったと書かれているが、おそらく徐家が交友があったのは母方の呉氏の方だろう。呉氏が銭唐の豪族で、徐氏が富春の豪族であるから、地理的にも近い。この辺りは許昌の乱や孫堅の海賊退治を見ても分かるように、妖賊・海賊の横行する場所であり、近隣の豪族間で交友を結び、結託していく必要性があったと思われる。
- 孫堅はその妹を徐真の嫁にした。徐氏との間に婚姻関係を構築した訳だ。そして、孫堅の妹と徐真の間に生まれた子が徐琨である。外戚という訳ではないが、極めて孫家に近い立場にある豪族と言える。孫堅は徐氏だけでなく、丹楊の朱氏(朱治)・廬江の周氏(周瑜?)などとも交友関係を結んでいたと思われる。一見、孫堅は武功のみによってその地位を確立していったように見えるが、その実、こうした有力豪族との関係の構築もきちんと行っている。
- さて、徐琨が生まれたのはおそらく孫策より少し前、170年前半の事だと思われる。孫策は孫堅の軍行に加わっていないのに対し、徐琨は同じ世代に当たるにも関わらず、反董卓連合の戦いには加わっているからである。若くして州や郡の役所に出仕して、天下が乱れると(おそらく反董卓連合へ孫堅が参加したのを受けて)役人を辞めて、孫堅の元で軍に加わった。徐琨の母は孫堅の妹なのであるから、どう見積もっても徐琨は孫策とそんなに年は離れていないはずで、この頃はまだ十代のはず。それで州・郡の役人となり、孫堅麾下の将として参戦しているのであるから、徐家は結構な力を持つ豪族だったのである。
- 徐琨はすでに孫堅期から多数の部曲(私兵)を従えていた。当時の孫堅麾下と言うと、程普・黄蓋・韓当・祖茂ら孫堅四天王と相場が決まっているが、実際の所、当時の彼らは良くて別部司馬(別働隊隊長)であり、あくまでも孫堅直属の部隊長に過ぎない。所が、徐琨は反董卓連合で功績を立てて偏将軍となっているのである。
- 当時の孫堅は破虜将軍。雑号将軍である。さすがに偏将軍(最下位の将軍職)よりは上だが、同じ将軍であり、そんなに大差はない。当然、雑号将軍の孫堅に徐琨を偏将軍に任命する権限はなく、この偏将軍任命はおそらく袁術の指名である。つまり、徐琨は孫堅と行動を共にしていた物の、その実、配下という訳ではなく、むしろ同盟軍的存在であったと言う事もできる。 ▼