【 平虜将軍 】
- 横江津・当利口での徐琨の功績もさることながら、徐琨の持つ部曲(私兵)の戦力は孫策にとって非常に重要な物であった。孫策は丹楊太守として袁術が指名してきた袁胤を追い払った際、徐琨を丹楊太守に任命している。丹楊は対袁術の最前線であり、徐琨の部曲はその防衛の要になる訳だ。だが、一方で徐琨を太守にするという事は、部曲を支える基盤を強力にする(収入源を強固にする)という事にもなり、孫策勢力の中で徐琨の勢力が徒出して強力になってしまう可能性を持っていた。この段階ですでに、孫呉政権は対豪族政略を必要としていたのだ。孫呉政権が豪族との連合政権的色合いが強いと言うのは、孫権期から始まった訳ではなく、孫策期、さらに遡れば孫堅期からそうである。孫呉政権は揚州豪族の協力なしでは存在し得なかった。逆に言えば、豪族をどう扱うか?というのは孫呉政権の命題である。孫策は呉景が袁術の元から帰ってくると、徐琨に替えて呉景を丹楊太守としている。元々、呉景は袁術麾下の丹楊太守であり、復帰する事があってもおかしくないが、同じ揚州豪族とは言え、呉景は孫家の外戚であり、徐琨よりは孫家宗室に近い存在であった。そういう事も徐琨から呉景への太守交代の要因として存在している。
- 丹楊太守を呉景と交代した徐琨は、替わりに督軍中郎将となっている。以前、徐琨が得ていた偏将軍と比べればスケールダウンな訳だが、偏将軍の地位は袁術が与えた物であるから、袁術に反逆した以上偏将軍はなしになる。当時の孫策は討逆将軍・呉侯であるから中郎将が徐琨に与える事のできる官位の限界な訳だ。
- その後、徐琨は孫策に従って廬江太守の李術を打ち破ったとあるが、これは劉勳の間違えである。李術が反乱を起こしたのは孫策死後の事だ。この劉勳攻撃は皖城攻撃の事であり、孫策と周瑜が二喬を手に入れた戦いである。この時も徐琨は有力な戦力として活躍し、平虜将軍・広徳侯に任じられている。だが、これは尋常な任官ではない。前述したように当時の孫策は討逆将軍・呉侯。もし徐琨が孫策によってこの官職を与えられたとしたら、孫策と同ランクの地位であり、優遇に過ぎる。それ以前に将軍・侯に過ぎない孫策に配下をこんな高位につける権限はない。太守の上奏は別。実際に支配しているからこそ、孫策は自勢力から太守を上奏して配置する事ができる。だが、将軍職や爵位を任命する権限はない。よって、この平虜将軍・広徳侯の地位を徐琨に与えたのは、おそらく曹操である。徐琨だけでなく、曹操は呉景・孫賁らも揚武将軍・征虜将軍などに任じており、彼らを孫策と同等かそれ以上の地位につける事により、孫家の君主権をそぎ落とす戦略を行っている。つまり、この辺りが孫家の弱点であるのは、曹操も周知の事であり、彼ら揚州豪族の扱いは孫策・孫権らにとって、非常に微妙な舵取りを要求される部分なのだ。孫策が江東制圧を行う際、江東の有力豪族を麾下にあまり加えようとしなかったのも道理であり、彼らのような例が増えすぎると非常にやりにくいのである。
- 劉勳討伐を成功させた孫策は、そのまま江夏郡・沙羨まで軍を進め、黄祖と対峙する。そこで孫策は、火計によって黄祖軍を壊滅させる事に成功した。だが、もしかしたらこの戦いは孫策伝にあるような楽勝ではなかったかもしれない。実はこの戦いで徐琨が戦死しているからだ。後の孫権による黄祖討伐を見ても、下流から江夏を攻める場合は苦戦が必死であり、この孫策による黄祖討伐だけが楽勝だったとは確かに思いがたい。前述したように、徐琨は多数の部曲を持つ有力豪族であり、その徐琨が戦死するとなると、相当の乱戦だったという気がしないでもない。孫策伝にある黄祖討伐の内容を見ると、【風上に火を放った】とある。火計が成功した後は怒濤の攻撃が可能だったかもしれないが、よく考えれば、この風上に火を放ちに行った部隊は決死だったはずだ。もしかしたら徐琨軍がそれに当たったのかもしれない。別の側面から言うと、徐琨のような直属でない部隊は、孫策からすれば激戦地に投入しても惜しくない兵力であったとも言える。徐琨だけでなく、呉景・朱治らも、一定の活躍の後は忘れ去られたかのように活動が停止しており、(そういう意味では周瑜死後の周家も全く同じ)こうした豪族対策というのが、孫家にとってのもう一つの戦いであった事を物語る部分である。 ▲ -徐琨伝 了-
- (注)徐琨は孫策に従って廬江太守の李術を打ち破った・・という記述は劉勳を打ち破ったの間違えである、と書いたが、なぜか集解にはその間違えを指摘している部分がないように見える。しっかりと翻訳している訳ではなく斜め読みであるから、間違っていたらごめんなさい(汗)。でも、間違えを指摘していないように見える。だからという訳じゃないんだが、読みようによっては、別の解釈もできる。廬江太守・李術を討ったのは事実であるとした場合、文面にある孫策の部分を孫権に書き換えると、一応、筋は通る。その場合は【徐琨は孫権に従って廬江太守・李術討伐に参加し、その後、孫権による黄祖討伐の際、戦死した。】という事になる。これでも事実認識的には筋は通る。この場合の黄祖討伐は凌操が戦死した203年の黄祖討伐という事になるだろう。孫策による劉勳討伐から黄祖討伐は時間的に連続して行われており、その間に平虜将軍・広徳侯に任じられたと言うのは、ちょっと時間的に苦しいので、むしろこっちの方が自然かもしれない。