あ行「お」

 区景(おうけい)

  • 後漢末の交州刺史・張津の配下。
  • 後漢末の交州の支配情勢は混乱を極めていた。まず交州刺史として朱符が赴任していたが、異民族の反乱により死去。それに伴い張津が交州刺史として赴任してきたが、その張津が、区景によって殺されてしまう
  • さて、この区景であるが、三国時代に出てくる人物で【区(おう)】と読むのは、この区景と次に出てくる区星の二人だけであり、いずれも荊州南部から交州にかけての異民族の出身であると見て良さそうである。つまり区景は張津の直属の配下ではなく、交州で登用した地元の有力者であると見て良いであろう。
  • その後も交州は支配権を巡り混乱し、実際に交州で勢力をつけたのは、交趾太守の士燮であったのである。個人的には、交州の混乱を演出したのは士燮・・・という気がしないでもないのだが・・・。

 区星(おうせい)

  • 長沙の反乱勢力。
  • 187年当時、長沙では区星が反乱を起し、自ら将軍を名乗り一万人強の兵を集めて町を包囲し攻撃していた。その反乱を鎮圧するために、太守として赴任してきたのが我らが孫堅なのである。
  • 孫堅は、自ら軍を率いて区星の乱の鎮圧に乗りだし、一ヶ月も経たない内に反乱を鎮圧してしまった。その当時反乱を起していた韓遂や、張純の乱が平定されぬままだったのに対して、区星の乱が孫堅によって瞬く間に平定されたことは、孫堅にとって大きな名声となっていたはずである。

 王叡(おうえい)

  • 字は通耀。孫堅の時代の荊州刺史。
  • 元々、王叡は孫堅と共に、零陵・桂陽の反乱鎮圧を行なっていたが、孫堅との折り合いは良くなかったらしい。反董卓連合が作られると王叡もそれに参加したが、洛陽に軍を進めるのではなく、武陵太守の曹寅を討とうとしていた。つまり、反董卓連合を荊州南部の基盤を固めるために使おうとしていたと言うことだ。裏を返せば、荊州刺史と言えどその勢力圏は荊州南部(長沙・武陵・零陵・桂陽)にまでは及ばす、それら四郡の太守は半独立状態であったという事である。孫堅はその半独立状態の軍閥の中でも特に有力な軍閥であっただろう。
  • 武陵太守の曹寅は、光禄大夫の温毅の檄文(恐らく打倒董卓の檄文)を偽造して、刺史の王叡を処刑するように・・という檄文にして孫堅に送りつけた。そこで孫堅は檄文のままに、荊州刺史の王叡を殺害したのである。詳しくは【孫堅伝8 -荊州クーデター1-】に書いている。
  • さて、曹寅の偽造の檄文をそのまま孫堅が鵜呑みにしていたとは考えにくい。むしろ武陵太守の曹寅と孫堅はグルであったか、曹寅が孫堅を利用したのを逆手に取ったかであろう。いずれにしても王叡は孫堅にとって目の上のタンコブだったのだ。結局、反董卓連合は荊州の刺史・太守たちにとっては、自分の勢力拡大のための道具であった事は間違えないだろう。

 王延(おうえん)

  • 孫晧に斬り殺された王蕃の弟。
  • 王蕃が殺された後、王蕃の一族は交州に移住させられ、交州の役所の監視下に置かれた。そして、278年に交州で郭馬の反乱が起きると、王蕃の弟の王延と王著のは郭馬によって殺害された。王延と王著の二人は優れた才能を持っていたと言う。

 王海(おうかい)

  • 213年に、豫章東部で反乱を起した賊の一人。一万人以上の反乱となったが、賀斉によってこの反乱は鎮圧された。この功績で賀斉は奮武将軍に昇進している。

 王金(おうきん)

  • 南海の土着勢力の一人。桂陽・湞陽一帯にまで勢力を伸ばしていたが、呂岱によって討伐されて、建業まで護送された。この功績で呂岱は安南将軍に昇進している。

 王氏(おうし)

  • 孫晧の側室。
  • 左夫人というから、かなり側室の中ではかなり高位である。その王氏が270年に死去すると、孫晧は悲しみに暮れ、毎日、柩の前で号泣し数ヶ月の間、人前に現れなかった。そのため孫晧死亡説が流れ、それを真に受けた豫章太守の張俊が処刑されるという、お粗末なオチまでついている。呉の末期の混乱状態を示す事件と言えるだろう。

 王遂(おうすい)

  • 呉の工夫。
  • 236年、呉では大銭が鋳造された(一枚が五百銭に当たる)。んでもってその大銭三万ビンを朱拠の配下が受け取ることになっていた。(1ビンは一千銭に当たる。ってことは三千万銭??んでそれ一枚が五百銭に当たるから・・・150億銭Σ( ̄∇ ̄|||!!!)
  • この大金を横領したのが工夫であった王遂である。工夫としかないが、もしかしたら銭の鋳造をやっていたのかもしれない。そういう訳で訴訟事件が起きたのであるが、運の悪いことにその訴訟の処理をしたのが、悪名高い呂壱だったのである。呂壱はこの横領事件を朱拠の責任にするべく、本来の受取人であった朱拠の配下を拷問にかけて殺してしまう。さらにはこの朱拠の配下が黙秘のまま死んだ事が朱拠が横領した動かぬ証拠であるとして、朱拠を詰問した。
  • 朱拠はこの疑惑に対して、弁明する道もなく、数ヶ月もの間、疑惑の渦中にいた。後に、典軍史の劉助が真相を掴むに至って、やっと朱拠の疑惑は解明されたのである。

 王崇(おうすう)

  • 228年(もしくは227年)に、魏に投降した呉の将軍。
  • この227年~228年というのは曹丕の死後であり、この時期なぜか呉から魏への投降者が多数存在している。まずは、227年に魏に投降した韓綜(韓当の子)、擢丹(てきたん)、それに魏書賈逵伝には、この王崇と張嬰が魏に投降したとある。さらに、228年には呉の周魴の偽の投降偽装も起きている。
  • 投降事件が多数起きた理由として考えられるのは、孫権伝に注として出てくる【それまで、呉では部将の失策は一回で処罰されていた。】と言うこと。つまり一回でも失敗すれば処罰されてしまうので、処罰を恐れて魏に投降したのではないか?という事である。この投降事件の後、孫権は部将の失策は三回まで許す事にした。
  • しかし、どうもそれだけとは思えないフシもある。227~228年と言えば、周魴の投降偽装作戦、つまり曹休おびき寄せ作戦を遂行していた時期だ。投降偽装のためには、いくつか本当の投降事件がないとナカナカ信用されにくい。もしかしたら周魴の投降偽装を本当に見せかけるために、わざと本当に投降させられた者もいるのではないだろうか?王崇の投降が本当なのか偽装なのかは、この後の王崇の記述がないので、定かではない。

 王晟(おうせい)

  • 呉郡嘉興の人。
  • 元は合浦太守であったが、孫策が厳白虎討伐を始めた197年頃には、王晟は呉郡で独立した勢力を保っていた。そこで孫策は王晟ら独立勢力の討伐を行ない、これらの勢力を根絶した。しかし、王晟は孫堅と交流があり、その一族も王晟一人を残すだけであったので、孫策の母・呉夫人が助命を嘆願し、王晟のみが許された。呉夫人の言葉に【年寄り一人を残すのみであり、何を恐れる事がありましょう。】とあり、この時すでに王晟はかなりの高齢であった事がわかる。
  • この時期の孫策は江東の支配権確立のために、独立勢力に対して一切の情を許さない厳しい政策を採っていた事がわかる事例である。

 王靖(おうせい)

  • 広陵の人。張温伝と周魴伝にその名が見られるが、記述を見る限り、あまり高い評価を受けた人ではないようである。
  • 元々、彼は中央で官僚として働いていたがあまり真面目に働いておらず、後に地方に出て太守となったがここでもあまり評判は良くなかった。張温はこうした彼の態度を弾劾していたらしい。また、周魴の魏への偽造投降文の中にもその名が見られ、【王靖が太守の時に、郡で変事が起り、譴責を受けたために魏に逃亡しようとした。】とある。しかし、逃亡計画が露見して、王靖の一族は皆殺しとなった。

 王潜(おうせん)

  • 歩隲伝に出てくる魏からの投降者。
  • 歩隲伝によると、魏からの投降者である王潜らは歩隲に【魏は長江を砂の袋でせき止めて呉に侵入しようとしている。】と進言した。歩隲は王潜の言葉を信じて、孫権に荊州の防備を強化するように進言したが、孫権は【長江は天地開闢以来、ずっと流れ続けている物であり、砂の袋ごときでせき止められるはずがない。もし私の言が間違っていたらアナタに牛千頭を屠ってごちそうしてあげよう。】とまるで相手にしなかった^^;。結局、孫権の言うとおり、魏が長江をせき止める事はなかったのである。

 王祚(おうそ)

  • 呉の部将。
  • 257年の諸葛誕の反乱の時に、全一族らと共に諸葛誕救援軍として寿春に派遣された。この諸葛誕の反乱では、呉の救援軍の主力であった全一族がこぞって魏に投降。残る唐咨・王祚らも諸葛誕の戦死と共に、魏に投降した。

 王族(おうぞく)

  • 279年に反乱を起した郭馬の配下。王族は郭馬の乱の時、始興郡あたりに兵を進めていたらしい。

 王著(おうちょ)

  • 王延と同じく、孫晧に斬り殺された王蕃の弟。
  • 王蕃が殺された後、王蕃の一族は交州に移住させられ、交州の役所の監視下に置かれた。そして、278年に交州で郭馬の反乱が起きると、王蕃の弟の王延と王著のは郭馬によって殺害された。王延と王著の二人は優れた才能を持っていたと言う。

 王直(おうちょく)

  • 戯口(揚州と荊州の境目あたり)の守備に当たっていた部将の一人。
  • 223年頃、戯口にはもう一人、晋宗という部将が守備についていたが、その晋宗は同じ戯口の守備隊長である王直を殺して魏に寝返った。

 王惇(おうとん)

  • 呉の将軍の一人。
  • 王惇の記述で最も初めの物は、219年、関羽挟撃の時である。関羽挟撃の成功と共に、魏と呉の国交の回復がなされ、孫権は王惇に命じて魏から馬を買わせた。
  • 時代が流れて、256年。孫亮の時代になると王惇は将軍に昇格していたらしい。孫峻の弟、孫憲(慮)は、孫綝が実権を握るようになると、孫峻の時代ほど優遇されなくなった。それを不満に思った孫憲は、将軍の王惇と計って孫綝を誅殺しようとしたが、事前に事が発覚し、王惇は孫綝に殺害され、孫憲は毒薬を飲んで自害した。

 王表(おうひょう)

  • 出ました^^;。孫権伝に詳しい、三国時代の人物の中でも指折りの怪しい人物、【自称神様】事、王表さんです。詳しくは【孫権伝37 -孫権外伝1-】の【孫権と透明人間】に書いてある。
  • 要するに詐欺師^^;。面白いのは、こういう見るからに怪しい人物に孫権が輔国将軍・羅陽王の称号を授けてまで、配下に招いた事だ。孫権ってば、どういうわけかこういう怪しい人物が大好きなのである。

 王文雍(おうぶんよう)

  • 孫休を生んだ、孫権夫人・王夫人の弟。
  • 孫休が即位した時には、王夫人はすでに地方に出され公安で死去していたが、王文雍は健在だったため、孫休の即位と共に、亭侯に任じられた。

 王約(おうやく)

  • 晋の交趾駐屯軍司令官・楊稷の配下。
  • 271年、孫晧は晋の支配下にあった交州を取り戻すべく、虞汜と陶璜に交趾を攻撃させた。その時、楊稷の配下であった王約が呉に寝返ったため、呉軍は城内になだれ込み、楊稷らを捕虜とする事ができた。

 王廬九(おうろきゅう)

  • 孫権夫人の王夫人の父。孫権夫人の王夫人は二人いるが、この王夫人は孫和を生んだ方。さて、記述では、王夫人の父の名前は廬九と言う・・・とだけある。別に何かをやったわけではない。まあ・・・珍しい名前ではあるが^^;。

 王朗(おうろう)

  • 字は景興。東海郡の人。
  • 経書に通じていて、若い頃から名士として評判が高かったようだ。後に陶謙に推挙されたが、当時の都は長安(つまり董卓在命中)であったので、そのまま陶謙の元で治中となっていた。その後、王朗は朝廷から会稽太守の任を受けたのである。会稽太守となった王朗は近隣の丹楊・呉・豫章郡が混乱する中で唯一、混乱のない治世をしていた。
  • しかし、孫策が会稽郡に攻め入ると、王朗は結局、郡を守ることができず、孫策に捕らわれた。だが、王朗は孫策に仕える気はなかったようで、その後、曹操の元に出向き、三代に仕える重臣となった。