あ行「え」

 衛温(えいおん)

  • 呉の将軍の一人。彼に関する記述は一カ所のみ。だが、その一カ所だけの記述がなかなかに重要だ。
  • 230年、前年皇帝となった孫権はいくつかの対外政策を行なった。その一つとして夷州(台湾)と亶州(日本?)の探索が行なわれ、その任に当たったのが、この衛温と諸葛直の二人なのである。
  • 夷州(台湾)の方は、長江下流から比較的近くにあり、交流もあったのだから分かるとして、亶州(日本)については、亶州(日本)に住む者が時々会稽郡にやってきて布などの商いをしたり、会稽郡東部に住む者が嵐に遭って漂流し、亶州に流れ着く事があった・・・というだけだった。つまりどこにあるのか、噂の範疇に過ぎなかったのである。
  • その亶州を捜して来て、しかもそこから人員を連れてこいというのだから、これは至難の業であった。うまく亶州に流れ着いたとして、卑弥呼の時代の日本から日本人を連れてきて、しかも再び呉に戻ってくる・・なんて事は当時の航海技術では不可能に近かったと言えよう。後の遣唐使の航路を見れば分かるが、初期の航路は対馬から朝鮮半島沿いに黄河下流に移動して西安を目指すというもので、後期になって初めて、朝鮮半島を経由せずに直接中国に行く航路が開発されたのである。それに日本から中国に行くのであれば、季節風に乗って行けばいずれかの海岸線には着くだろうが(ベトナムの方に行ってしまうかもだが^^;)、中国から日本へ・・・というのは、方向がしっかりと定まっていないと大変な事になる。太平洋ひとりぼっちなんて事も十二分に考えられるわけだ。大体、遣唐使の遭難例はそのほとんどが中国から日本への帰路の方だ。阿倍仲麻呂も鑑真もそれに失敗してなんども辛酸を舐めたのである。
  • さらになんとか日本人を連れ帰るのに成功したとして、当時の日本人が中国に移住してどれほど役に立つか・・ということも考えると^^;(半分以上は疫病にかかるだろうし・・・)、この亶州探索は確かに人員と物資のムダ遣いであったと言って良いだろう。
  • まあ、そうは言っても、歴史とはそういう無謀なチャレンジを経て、次第に国と国との交流が生まれるという性質を持つものであるので、一慨に無謀であったからと言って非難すれば良いというものでもない。アメリカ大陸発見だって元は印度探索の旅だったわけだから。孫権もまた、そういう大いなる無謀へのチャレンジャーであった・・・という事で良いように思う。
  • ただし^^;。衛温さんにとってみれば、これは悲劇としか言いようがない。亶州からの人員派遣に失敗した衛温と諸葛直は、231年に勅に背いたという事で誅殺されてしまった。誰か弁護してやる人はいなかったのだろうか?いや、もしくは誅殺されても仕方がなかったのかも知れない。そもそも衛温は亶州探索に恐れをなし、日本を捜さずに戻ってきた可能性もある。よく考えれば、日本を探しに行ったなら、再び呉に一年後に帰ってくるなんて事は可能であろうか?本気で日本への航海を考え実行に移したなら、遭難して行方不明になるか、日本に流れ着いて長い間右往左往するか、どちらかではないかという感じがする。夷州(台湾)には行ったが、日本へ行く方法が見つからず帰ってきたとしたら・・・これは確かに勅命違反である。命を受けた以上は、可能性が低かろうがなんだろうが、やってみるのが筋ではある。だとしたら、孫権が怒るのも無理はないかも知れない。

 衛旌(えいせい)

  • 歩隲の学友。良くも悪くもそれ以上でもそれ以下でもなく、ごく普通の人である^^;。字は子旗。
  • まあとにかく彼は普通の人だった。生まれは広陵(徐州)で、張昭・張紘らが江東に避難した頃と同じくして、江東に移住した。例の曹操の徐州大虐殺の煽りである。そこで同い年の歩隲と仲良くなり、二人で瓜を作って生活費を稼ぎ、昼は肉体労働をして、夜は学問の勉強をした。まあ、悪い人ではない。
  • 当時、二人が暮らしていた会稽郡では、当地の豪族の焦征羌が力を持っていて、彼のご機嫌取りをするために、歩隲と衛旌は瓜を献上する事にした。焦征羌は横柄な人物で、歩隲と衛旌を長く待たせたまま、奥で寝ていた。衛旌は普通の人なので、焦征羌の横柄な態度に怒って『もう、帰ろう。』と言ったが、歩隲は『それじゃー、返って恨まれたりするだろうが^^;。ここは待つしかないよ。』と言う。やがて現れた焦征羌は、二人を窓の外の地べたの上に敷いた敷物の上に座らせたまま会見し、自分の食事は豪勢な物を食べ、二人には質素な食事しか出さなかった。当然、普通の人の衛旌は、こんな待遇をされて怒り心頭で、出された食事を食べなかったが、歩隲はおいしそうに食べた。退室してから、衛旌は『なんであんな待遇に君は耐えられるんだ?』と歩隲に聞いたら、歩隲は『私たちは貧乏で身分の無い者だから、焦征羌はそのように扱っただけの事。別に怒る事でもなんでもないだろ^^;。』と言ったと言う。・・・まあ・・・なんだ・・・要するに歩隲の引き立て役としては絶好の人物であると言えよう^^;。別に愚かではないが賢くもない。こういう人が近くにいると比較される側としては、実に助かるという類の人である^^;。
  • さて、歩隲の方はガンガン頭角を現し、孫権が皇帝となると、驃騎将軍となり、荊州の重要拠点の西陵の都督に任じられる。衛旌の方はこの間の昇進状況は全く不明だが、まあ普通の人らしく、普通にがんばっていたと思われる^^;。そういう衛旌を歩隲はちゃんとフォローしており、孫登に当てた手紙の中で、荊州で成果を上げている者たちの中に衛旌の名前を入れてあげたりしている。
  • そういう歩隲のフォローもあってか、231年頃には、衛旌は武陵太守となっていた。所が、やはり普通の人の限界か、そこで一つの破綻が訪れる。彼の元に『潘濬は、蜀に寝返る準備をしている。』と報告する者がいたのである。衛旌は普通の人なので(ひつこい^^;)、それを普通に信じて、孫権にその事を報告した。すると孫権は『潘濬はそういう事をする人間ではない。』と言い、衛旌の上奏の中身を見ようともせず、上奏文を潘濬に送り、逆に衛旌の方を罷免してしまった。哀れ衛旌^^;。
  • さて、少し裏読みをすると・・・・基本的な所で、歩隲ら呉から来た荊州統治組の豪族たちと、元から荊州にいた潘濬との間で、微妙な主導権争いがあったようではある。潘濬は潘濬で、歩隲の軍備増強の上奏に反対し、それを潰している。衛旌が歩隲派の人材であった事を考えると・・・、歩隲側からの報復行為と言えなくもない。
  • そういう訳で、武陵太守を罷免されてしまった衛旌であるが、この失策で一巻の終わりとなったかというと、そうでもなさげである。歩隲伝の注の中に【衛旌の最高位は尚書である。】と書かれているのである。尚書と言えば、国家の中枢機関であり、普通に考えれば、歩隲が丞相となった時に同時に中央府に召し出された・・・と考えるのが納得がいく。そもそも、歩隲伝を見る限り、衛旌はずっと荊州に赴任していた。その後、武陵太守となりそれを罷免されたのであるから、それ以前に尚書にいたと考えるのはちょっと無理があるっぽい。そうなると、衛旌は武陵太守を罷免された後、やはり学友の歩隲によって助けられたとも言える。持つべきは友・・・と言うことだろうか?

 苑御(えんぎょ)

  • 賀斉伝に出てくる山越賊の領主の一人。
  • 203年頃の会稽郡では、主に7つの山越部族が存在していたようである。苑御はそのうちの一つの領主で、おおよそ一万戸が付き従っていた。戸というのは家の数であり兵力ではない。一万の家が部族として存在していたということである。となると、兵力としてはそれより少し落ちて5~6千人程度とだろうか?そんな部族が7つもあったのだから、それを討伐する賀斉は大変である。
  • 苑御ら5つの部族の本拠は漢興という所にあった。そのため賀斉は漢興討伐を行ない、見事これらの部族を討ち、苑御は賀斉に降伏した。

 袁氏(えんし)

  • 袁術の子、袁燿の娘。
  • 袁術の一族は孫策が劉勲を打ち破った際に孫家によって保護され、袁術の娘の袁夫人は孫権の妻に、子の袁燿は郎中に任命された。そして、その袁燿の娘は、孫権の子である孫奮の妻となった。
  • その孫奮であるが、孫亮の時代に謀反未遂事件を起して、庶民に身分を落された。その後、候として名誉回復がされたが、孫晧の時代になると孫晧に疎まれ、一族惨殺の憂き目に会っている。袁氏もその時に惨殺されていると思われる。決して幸福な人生ではなかっただろう。

 袁綏(えんすい)

  • 【献帝春秋】を書いた、袁曄の曾祖父。その袁曄の書いた【献帝春秋】の中に、袁綏の息子の袁迪(えんてき)は張紘らと共に長江を南に下り、袁綏は太傅掾となった。また張超が董卓討伐に向かった時に、仮の広陵太守となった・・・とある。
  • どうも、この献帝春秋の記述は時系列がバラバラである。まず、張超が董卓討伐に向かった頃、袁綏が臨時の広陵太守(徐州)になったというのが初めで、次が袁迪(えんてき)が江東に逃れ、袁綏は太傅掾になった・・・というのが時系列的には筋が通っている。
  • さて、張超が董卓討伐に向かった頃、臨時の広陵太守(徐州)になったのなら、袁綏は張超配下の一員であっただろう。ということは、そのままなら袁綏は張超と同じく、呂布軍に参入したはず。しかし、そうなると袁綏が太傅掾になった・・・というのがどうもおかしい。太傅掾というのは、太傅(天子の補佐)府の中の役人の事である。ということは、当時は洛陽にしか天子はいなかったのであるから、袁綏は洛陽にいたはずだ。となると、袁迪(えんてき)が江東に逃れたのに随行して、袁綏は江東に逃れたというわけではない。その当時の孫策軍に太傅府は存在しない。どうも献帝春秋の書き方は紛らわしい^^;。となると、袁迪と袁綏は行動を共にしておらず、袁迪は江東に逃れたが、袁綏は洛陽で役人をやっていた・・はずである。
  • となると???袁綏は張超に仮の広陵太守に任命されたが、その後は張超と行動を共にせず、曹操に仕えた可能性が高いように思われる。って・・・こうなると呉とはなんの関係もないジャンΣ( ̄∇ ̄|||。袁曄の書き方が悪い(爆)。もう少し分かり易く書くように^^;。

 袁忠(えんちゅう)

  • 字は正甫。汝南の人。沛国の相となった。後に江東に逃れ、会稽郡に移住したが、孫策が会稽郡に攻め込んだときに、交趾に逃れた。
  • 後に献帝(曹操?)に呼び出され、衛尉に任命されるが、赴任しないうちに死去したらしい。

 袁迪(えんてき)

  • 献帝春秋の作者、袁曄の曾祖父。彼もまた曹操の徐州大虐殺の煽りで江東に逃れた人。
  • こうした北からの移住者たちは、生活背景を持たず、貧しい暮しを余儀なくされる者が多かったが、陸瑁は袁迪らを手厚く保護し、苦楽を共にしたという。

 袁夫人(えんふじん)

  • 袁術の娘。孫権の妻となった。
  • いつ、側室となったかは伝が立てられていないため、定かではないが、孫策の劉勲攻撃の時に、袁術一族は孫家によって保護されており、その時に初陣を飾った孫権が袁術の娘を見初めた可能性が高いように思われる。
  • 袁夫人は行い正しく、孫権は歩夫人が死去した後は、袁夫人を正室にしようとしたが、袁夫人には子が産まれず、それを理由に正室となることは固辞していたと言う。孫権も袁夫人の性格のよさを見込んでか、幾度か他の妾の子供を袁夫人に預けたが、いずれの子も育たなかったらしい。
  • しかし、嫉妬深い潘夫人の讒言によって、袁夫人は殺された・・・とある。潘夫人のように、低い身分から女としての野心を抱く人たちが暗躍する後宮において、袁夫人のような高貴の生まれでおっとりとしたタイプは生き残れなかった・・・ということだろうか?

 袁雄(えんゆう)

  • 呂蒙伝に出てくる校尉。
  • 呂蒙は十代の頃に、自分を愚弄した役人を斬り殺す事件を起して逃亡したが、この袁雄が仲介となり、呂蒙を出頭させた。そこで呂蒙を弁護してくれる者が現れ、それを聞いた孫策が呂蒙を側使えとして採用した。
  • 袁雄を初め、数人の呂蒙の擁護者がいたから、呂蒙は生き長らえる事ができたのである。

 袁曄(えんよう)

  • 正史三国志でも異聞としてよく注釈に採用されている【献帝春秋】の作者。袁暐という表記もある。
  • ただし、献帝春秋の使われ方のほとんどは【信憑性に欠ける書物】としてであり、裴松之は献帝春秋を評価していなかった事がわかる。
  • 例えば、献帝春秋の「審配は井戸の中に逃げ込み、井戸の中で捕らえられた。」と言う記述を挙げて、【審配がどういう人物かも知らないで、そういう説の正誤を判断する能力もなく、軽々しく筆を弄んでいる。まことにこういう所行は罪であり、取るに足らない書物である。】と手厳しい。
  • さらに、荀彧伝でも、献帝春秋の記述をひどく批判しており、【ゲスの勘ぐり】【自分たちの基準のみで君子を誣告する物】【袁暐のデタラメな記述の中でも最も酷い例】と散々である。
  • さて、ここまで裴松之が言い切るのだから、たぶん献帝春秋は信憑性に欠けるのだろうが、ただ気になるのは、裴松之の批判の仕方が、他の書物の信憑性を論じるときのような理論的な態度ではなく、どちらかというと【この人物がこんな事を言うはずがない。】【いい加減すぎる。】という感じの批判である事だ。正直言うと、裴松之が強い調子で人物や書物の批判を書く下りは、時々鼻につく事もある。献帝春秋は、明らかに献帝を擁護して曹操を逆賊とする書物であるから、その記載が必要以上に批判されている可能性もあるのではないだろうか?
  • さて、話を変えて^^;。なぜ、この袁曄が、呉書外伝にいるかというと、【袁曄は呉に住んでいた可能性が高い。】からである。袁曄の祖父にあたる、袁迪が江東に逃れているからだ。そのまま江東に住み着いたとしたら、曹操を逆賊とする書物を書けた理由も納得できる。

 袁燿(えんよう)

  • 袁術の子。
  • 孫策が劉勲を攻撃した時に保護され、呉で郎中に任じられた。その後については不明である。袁術の子孫では、むしろ男より女の方が出世しており、袁術の娘は孫権に、袁燿の娘は孫奮に嫁いでいる。

 袁龍(えんりゅう)

  • 215年、荊州の支配権を巡り、呉と蜀の間で緊張が高まり、孫権は呂蒙・魯粛らに命じて荊州の奪回をさせた。(この時は魯粛の外交努力により、荊州を東西で分割する事で、事態は収拾された。)
  • その時、呂岱は、軍を率いて長沙・零陵・桂陽の三郡を奪回したが、中郎将であった袁龍は、関羽と通じて、醴陵で反乱を起した。呂岱は醴陵を攻撃し、難なく袁龍を捕らえて斬り殺した。

 袁礼(えんれい)

  • 呂壱事件の時に、孫権の反省文を各軍指揮官たちに伝えた使者。
  • 孫権は呂壱という官僚を信任したが、後に呂壱の悪事が明かになると、孫権は自分が間違っていた事を認め、中書郎の袁礼を使者に立てて、諸将たちに反省の意志を伝え、政治の改善点を訊ねた。だが、諸葛瑾も歩隲も朱然も呂岱も、自分は民事の担当ではないから・・と言って、はっきりとした批判を避けた。それを聞いた孫権が愕然として、『もっと言いたい事を言ってくれ・・・』と返信している。

 閻浮(えんふ)

  • 胡綜の偽造した、魏の呉質の投降偽装文の中に出てくる。
  • 魏の部将であった閻浮は、呉に投降しようとしたが、その連絡が不十分であったため失敗したらしい。