あ行「い」

 夷廖(いりょう)

  • 交州の乱立勢力の一人。呂岱が交州から中央に戻ったとき、後任として優れた人物が必要であると薛綜が上奏した文の中に出てくる。
  • 交州刺史だった張津(ちょうしん)の部下だったが、張津が殺害された後、交州で独自の勢力を持ったらしい。歩隲が交州刺史として赴任すると駆逐された。
  • 【 夷 】という姓は東夷(東側の異民族の総称)という言葉でも分かるように、あまり良い意味の姓ではない。三国志に出てくる人物でも夷という姓を持つのは、夷廖一人である。この事からたぶん、交州の異民族の領主の一人では無かったか?という感じはする。

 韋隆(いりゅう)

  • 孫晧時代の左国史・韋曜(いよう)の子。三国志にはただ一文、【 韋曜の子、韋隆も文化的な方面に才能があった。 】とだけある。
  • 晋書にもその名前はどうも出てこないようで、韋隆は父・韋曜誅殺後、零陵に強制移住されたまま、特に晋王朝に仕える事なく、生涯を終えたのかも知れない。

 伊異(いんい)

  • 呂岱伝の中の呉書からの引用に出てくる、呂岱の部将。呉書によると、211年に、呂岱は郎将(中郎将の略か?)の伊異らと共に、2000の軍を率いて西に向かい、張魯を漢興郡の卷城におびき出す作戦があったらしい。
  • 211年というと、周瑜の死去の直後である。張魯への攻撃は、もしかしたら周瑜の天下二分の策の一環だったのかもしれない。結局この作戦は、張魯が漢興郡につながる山道を閉じてしまったために成功はしなかった。

 殷基(いんき)

  • 零陵太守・殷礼の子。
  • 才能と学識で名が知られた人物で【 通語 】という書物を著した。【 東洋学古典電子文献検索 】で通語を検索すると、儒書(儒学の書物)として分類されている。
  • また、彼は無難の督となったとある。無難督といえば、解煩督と並ぶ、呉の特殊部隊の一つである。その実状は不明だが、孫亮伝で、孫亮の孫峻抹殺計画の中に【私は近衛兵と左右の無難軍を率いて・・・・・】とあり、皇帝直属の部隊とみて良さそうだ。ということは、彼は軍を率いたことがあると言うことだ。もしくは、呉の末期には、無難督そのものが文官への名誉職的になっていた、ということだろうか?
  • 殷基には、三人の息子がおり、そのうち長男の殷巨と末っ子の殷祐については呉書に記述がある。

 殷巨(いんきょ)

  • 殷基の長子。字は元大(げんだい)。
  • 殷家は零陵太守・殷礼以来、なかなかに優秀な人材が続けて出没している。殷巨は、呉の末期に偏将軍に任命されたが、その後、晋による征呉戦が勃発。殷巨は一族・郎党率いて夏口に城を築いて防戦に当たったという。
  • 夏口というと、晋の胡奮軍が侵入した場所であり、呉書・晋書ともに呉軍の方で夏口の防備についた将が不明な場所である。おそらく呉軍の方で一番手薄な箇所だったのではないだろうか?そうなると殷巨は呉軍の守備の不備を見抜いて、偏将軍の身で自主的に夏口の守りについた事になる。そうした事を見込まれてか、後に晋朝の元で蒼梧太守となっている。

 殷興(いんこう)

  • 呉の末期に反乱を起こした郭馬の部下。
  • 郭馬は元々、合浦太守・脩允(しゅういん)の部曲(私兵)の隊長である。殷興はその郭馬の元で部隊を率いる隊長の一人だったようである。こうした部曲は人間同士の結びつきが強く、殷興も呉に忠誠を誓うというより、郭馬個人とのつながりを重視していたと言えるだろう。
  • 殷興は郭馬が広州督の虞授(ぐじゅ)を殺害し、反乱を起こすと、郭馬により広州刺史に任命されている。

 殷模(いんぼ)

  • 孫権の代の校尉(軍の編成単位での指揮官)の一人。彼と殷礼との関係は不明である。もしかしたら、殷礼の祖先に当たるのかもしれない。
  • 彼はある時、孫権の怒りに触れ、処刑寸前まで行ったが、諸葛瑾の言葉により、その罪を許された。
  • その言葉の中に、【我々(諸葛瑾と殷模)は、郷里が壊滅し、生き物が根絶やしになるという事態に遭遇した・・・】とある。諸葛瑾が郷里を壊滅されられたとは・・・曹操による徐州大虐殺を指すのであろう。つまり殷模も徐州の住民で徐州での虐殺から逃れるため長江を渡り、呉に移住してきた北方からの移民系の人材の一人と言える。

 殷祐(いんゆう)

  • 殷基の末っ子。字は慶元(けいげん)。
  • 呉書には、呉郡太守となったとだけある。長男の殷巨がすでに征呉戦前後の偏将軍任命である事から、呉郡太守となったのは、晋代に入ってからであろう。

 殷礼(いんれい)

  • 字は徳嗣(とくし)。丹楊郡・曲阿の雲陽(うんよう)の人である。
  • 元々の家柄は悪く、呉書には【微賤の身分(身分が低く卑しい事)】とある。だが、顧邵(こしょう、顧雍の長男)によって抜擢され頭角を現し、ついに零陵郡太守にまでのし上がり、在官のまま死去した。
  • また、殷礼の息子・殷基の著した【通語】によると、殷礼は若いときから、戯れ事を好まず優れた見識を備えていた。やがて郡の役人となり、19才で呉県の丞(内政面の副官)を代行。孫権が呉王となると、中央に召されて郎中となり、のちに張温と共に蜀への使者となったが、諸葛亮は彼の事を絶賛したという。
  • 殷礼は顧邵だけでなく、張温にもその才を認められていたようで、張温は蜀への使者として殷礼を同行させるように何度も願い出ている。また蜀において彼の話題を積極的に振り、呉に帰還すると、彼を尚書戸曹郎(役職不明。戸が付くので戸籍関係の仕事かも?)に昇進させている。実はこの昇進事件が張温失脚の一因にもなっているのだが。それにしても、諸葛亮・顧邵・張温と名士中の名士に評価されているからには、殷礼はかなりの才能の持ち主であったと言えるだろう。
  • また彼は占いの技能も持っていたようで、中央に召されたのはその占術を買われてのことらしい。彼自身も占術には興味があったらしく、趙達(ちょうたつ。九宮一算術マスター)の秘術を学ぼうとしていた。
  • 殷礼で最も有名なのは、孫権への征魏戦の上奏文であろう。『漢晋春秋』によると、殷礼は孫権に以下の提案を上奏している。
    • 曹叡死後、魏では幼帝が立てられており、一気に魏を征圧するチャンスである。
    • 通常の対魏行軍ではなく、総動員をして国運を賭けて戦えば勝てる。
    • 具体的には、蜀を動かし、諸葛瑾・朱然が主力を率いて襄陽を攻撃、別働隊で陸遜・朱桓に寿春を攻撃、孫権自らが徐州に向かうのがよい。
    • もしこのうち一つでも魏が敗れる事があれば、魏の内情は不安定であり、内応が期待できる。
    • これまで通りの通常の行軍では、魏に不安をあたえる事はできない。ジリ貧となる。
    実際、魏の弱体化が始まったのは、曹叡死後であった。ただの文官の思考ではない。殷礼が中央の重要な地位に就いていれば、この提案が認可された可能性もあっただろう。だが、実際にはこの提案は受け入れられる事はなかった。孫権としては、国を背負う者として、国運を賭けて戦って、悪い目が出た場合の事も考えなくてはならなかった。しかし、こうした人材がまだ呉に隠れていたというのは嬉しい事である。殷家は殷礼の後、殷基・殷巨と優れた人物を輩出している。

 隠蕃(いんはん)

  • 青州の人で、魏の官史。
  • 彼こそは、正史に見られる、正式な埋伏の毒の実行者である。曹叡は彼が弁舌巧みなのを利用して、230年に、隠蕃を埋伏の毒として投降させ、呉の内部分裂を画策する。
  • 隠蕃は孫権に目通りすると、なかなかに立派な答弁をし、孫権は彼に廷尉監(警察長官のような役職。主に捜査・逮捕を司った。)に任命した。その後、彼は得意の弁舌で多くの人をたぶらかす事になる。正史に名が出てくるだけで、左将軍の朱拠、廷尉の郝普、潘濬の息子の潘緒、衛将軍の全琮とかなりの高官が隠蕃と親交を持っている。中でも郝普は、同じ役所を勤めていた事もあってか、隠蕃を持ち上げる事が多かった。
  • 後に陰謀は露見し、隠蕃は捕らえられ、陰謀に加わった者の名を挙げるように糾弾されたが、最後まで呉内部の協力者の名を明かすことなく死んだという。
  • さて、この埋伏の毒の最大の目的は、孫権と呉の重臣の離間に目的があったようである。その後にも孫家の支配権の確立を目指す孫権と重臣の間で呂壱事件のような確執はあっただけに、それなりに有効な策略だっただろう。
  • さらに付け加えるなら、北の文化人に対する呉の人々のコンプレックスという側面も突いているように思える。逆を考えれば分かり易い。呉から魏へ投降者があったとして、隠蕃のように用いられるだろうか?ないと思う。逆に言えば、隠蕃のように露見しなかった埋伏の毒もあったのではないか?という事も考えられるのである。