か行「く」

 虞喜(ぐき)

  • 字は仲寧。会稽郡余姚の人。
  • 当然、虞翻と関係があるから外伝に載っているのだが、三国志的に言うと、むしろ正史の注として掲載されている志林の著者としての方が有名。そして、歴史人物として言うと、むしろ歳差(地球の自転軸の方向および公転軌道面の永年変化によって生じる春分点の位置の永年変化の事。えっ分かりにくい?つまり暦が356日とちっょとずつずれていくアレ。それ以上聞かないように。)の発見者としての方が有名という、非常にグローバルな人物。大変優秀な学者さんだったのだ。時代的には晋の学者であり、虞翻の遠い子孫に当たる。
    • 【虞家家系図】
      虞光-虞成-虞鳳-虞歆-虞翻-虞汜
                    -虞忠-虞譚
                    -虞聳 ・・虞察(族子)-虞喜
                    -虞昞
    また、虞翻伝には、虞翻には兄がいた事が書かれており、呉書に出てくる虞氏はそのほとんどが虞翻の同族ではないか?と思われる。

 虞欽(ぐきん)

  • 245年の馬茂による孫権暗殺計画に加わった無難督。無難督はおそらく皇帝の近衛隊の一つ。左右の二つがあったようで、その督であったならば、やはり会稽の虞一族の一人だろう。

 虞歆(ぐきん)

  • 虞翻の父で、日南太守であった事が書かれている。虞翻の一家は元々、「易経」の解釈学をやっていて、虞歆も易の研究をやっていた。虞翻はそれら虞家の研究をまとめて易の注釈本を作り上げている。

 虞察(ぐさつ)

  • 虞聳(虞翻の子)の一族で虞喜の父。

 虞汜(ぐし)

  • 字は世洪。虞翻の第四子。
  • 虞翻の子の中では最も重要度が高く、孫晧伝に何度か記述が見られる。
  • 16歳の時に、父・虞翻が死去すると、虞汜は会稽郡に戻る事ができた。その後、孫綝が孫亮を廃して孫休を迎える事になった時、孫綝は孫休が宮中に到着しないうちに、先に宮中に入ろうとした。それに対して虞汜は、「そのような事をしては、あらぬ評判が広まります。」と進言して、孫綝を止めた。
  • 孫休が即位すると、散騎常侍(皇帝の側近として勅書の伝達をする係)に任じられる。その後、孫晧の時代となると、虞汜は監軍(監○州諸軍事の事で、州に都督がいない場合の州の軍事統率者として兵を率いる時に与えられる。)として、当時離反していた交州討伐に向かう。虞汜は荊州方面から陸路で交州に向かったので、おそらく監荊州諸軍事だったと思われる。つまりこの時点で軍部のトップと言って良く、イメージ的には文官というイメージだが、軍事的資質もあったようだ。
  • 交州討伐に向かった虞汜は、丸一年かかって交趾を陥落させるのに成功。さらに交州の独立勢力である扶厳を破りる事にも成功する。その功績から交州刺史・冠軍将軍・余姚侯に任じられるが、まもなく病死した。

 虞咨(ぐし)

  • 孫権の遼東状勢介入を受けて、公孫淵の元に派遣されたが、公孫淵に斬られた。同じく派遣された将に賀達(賀斉の子)がおり、同レベルの人材だとすれば、虞翻の子である可能性もある。虞翻には併せて11子がおり、その中には名が不明な者も多い。

 虞授(ぐじゅ)

  • 広州の督(軍事統率者?)だったが、郭馬の乱の際に殺された。これまた虞翻つながりである可能性が大。

 虞俊(ぐしゅん)

  • 余姚の人というから、これまた虞翻の同族。張温の失脚を予言した。
  • 虞俊は「張温は才能は豊かだが智に欠ける所があり、華やかではあるが実が伴わない。やがて恨みを集めて家を断絶させることになる。」と言った。それを聞いた諸葛亮はすぐには信じられなかったが、後に張温が失脚すると、虞俊の先見の明に感心し、「張温は清と濁・善と悪をあまりにはっきりと態度で分けすぎたんだな。」と言った。
  • 張温は使者として蜀に赴く事があり、諸葛亮も認める人材だったので、その失脚は諸葛亮も関心を持っていたのだ。

 虞翔(ぐしょう)

  • 「会稽典録」の中で朱育が会稽の優れた人物として挙げている人物の一人。章安出身で鄱陽太守になった。虞翻の一族は余姚出身であるから、会稽のもう一つの虞氏という事になる。元は同じかもしれないが。

 虞聳(ぐじ)

  • 字は世龍。虞翻の第六子になる。淡泊で物事に執着しない性格で、行動は礼にかなっていたそうだ。
  • 越騎校尉から昇進を重ねて、廷尉(九卿の一つで宮中の警備・巡回を行う。たぶんに名誉職。)となった。
  • 晋王朝になってから、河間国の相となった。相として人材を推挙する際には、名を知られている人物より身分の低いあまり知られてない人物を推挙する事が多く、虞聳は虞察に宛てた手紙の中で、「よく知られている人物しか推挙しない近頃の風潮は嘆かわしい事だ。」と言っている。
  • また儀式が過分に盛大になるのを嫌い、弟の虞昞が死去した時も、羊と豚の肉・酒・飯を捧げただけだったと言う。
  • おそらく、当時、すでに有力豪族しか推挙されないという風潮が広がっており、出世にあまり興味のない虞聳は、そうした官人法の形骸化を憂いていたのだろう。

 虞譚(ぐたん)

  • 字は子思。虞忠の子。
  • 行いは清廉で節操を持ち、見た目は弱々しそうだが、芯の通った所があったそうだ。
  • 晋に仕えて、衛将軍にまで昇った。死後に侍中左光禄大夫・開府儀同三司の官職を送られた。

 虞忠(ぐちゅう)

  • 字は世方。虞翻の第五子。節操を守ると共に実行力があった。
  • 陸機・魏遷・王岐と言った人材を見いだすなど、人物を見極める才があったと言う。虞翻の子は総じて、礼節をわきまえ、芯の通った人物が多い。虞翻の教育の賜物だろう。
  • 呉が滅びる前に宜都太守となり、晋の征呉戦の前線に立たされたが、陸晏・陸景らと共に、宜都城に立て籠もり、城が墜ちた時に殺害された。

 虞昞(ぐへい)

  • 字は世文。虞翻の第八子。俗事にせこせこしない大らかな気風を持っていたと言う。
  • 呉で黄門郎(禁中に出入りして勅命を伝達する係)となり、君主の下問に的確に対応する事から才を認められ、昇進して尚書侍郎に任じられた。
  • 晋の征呉戦が始まった時は、持節を預かり、武昌より上流の諸軍の総指揮をするように派遣された。だが、呉軍が総崩れになると、持節を返却して晋に降った。
  • 呉が滅んだ後は、済陰太守となり、良い統治を行ったという。

 虞溥(ぐほ)

  • 晋の鄱陽太守。なんで外伝に入れたかというと、彼は呉書の注としてよく採用される「江表伝」の著者であるという事と、もう一つは虞家とどういう繋がりがあるのか?という部分である。
  • 虞溥は晋書に列伝が記載されているが、晋書と言えば和訳がない(泣)。よって原文しか手に入らないのだが、とりあえず【字允源,高平昌邑人也】つまり字は允源。高平昌邑の人である・・という事は分かった。父が偏将軍だった事も分かった。そんだけ(汗)。もう少し漢文が読めれば・・・・。
  • とりあえず晋に仕えた虞家とのつながりは不明。江表伝と言うと、呉の人物を持ち上げる記述が多く、虞姓と言うこともあって、呉との繋がりは感じさせるのだが。あるいは、鄱陽太守となって、その地に伝わる文献をまとめた物が江表伝なのかもしれない。

 虞褒(ぐほう)

  • 会稽の人とある。交州刺史となった朱符が会稽から連れてきた官士。
  • 朱符の統治政策に従って、厳しい税の取り立てをしたが、返って反乱を招いている。さて、会稽人で虞姓となると、虞家の分家かもしれない。
  • また、交州と言うと、虞翻の父の虞歆は日南太守だったし、虞翻自身も交州にいたという事もあって、虞家との繋がりは結構ある。あるいは、虞歆は朱符によって、虞褒らと共に交州に赴任させられていたのかもしれない。

 屈幹(くつかん)

  • 屈晃の弟。兄が二宮の変で孫和擁立を諫言して罰を受けた人だったので、孫晧が即位すると、その功績から立義都尉となった。

 屈恭(くつきょう)

  • 屈晃の弟。兄が二宮の変で孫和擁立を諫言して罰を受けた人だったので、孫晧が即位すると、その功績から立義都尉となった。屈幹と全く記述が同じだが気にしない事。他に書きようがない。

 屈晃(くつこう)

  • 汝南の人。孫権の時代に尚書僕射(尚書の副官)になった。
  • 二宮の変が起きると、孫和幽閉に抗議して、朱拠と共に、顔に泥を塗り自らを縄でしばって連日宮廷の前で抗議行動を起こす。孫権は不快に思って、軽率なマネはするなと言ったが、屈晃はそれでも治まらない。次に孫権が孫亮を太子に立てると、再び抗議行動を始めた。孫権の怒りは頂点に達して、朱拠と屈晃を殿中に引きずり込んで、百叩きの刑に処す。
  • 殿中に引きずり込まれても、屈晃は全く怯む様子もなく、「太子(孫和)様が賢明である事は、天下の者がよく知っています。今、天下が三つに分かれて争っている時に太子を変えるなどあってはならない事です。どうかご考慮下さい。」と叩頭して額から血を流し、強烈に訴えてくる。だが、この行動が返って、孫権の怒りに火を注いだのか、屈晃は百叩きの刑の上、都を追われる事となる。
  • その後、孫和の子である孫晧が帝位につくと、この烈士の子孫を孫晧は優遇する。「屈晃は真心からの諫言をしたために追放となった。よって、屈晃の子・屈緒を東陽亭侯とし、屈晃の弟の屈幹と屈恭を立義都尉とする。」屈晃の行動は死後に実を結んだ訳だ。

 屈緒(くつしょ)

  • 父は屈晃。屈晃が孫和を弁護して追放された事から、孫晧によって取り立てられ、東陽亭侯となり、その後、尚書僕射(尚書の副官)になった。