か行「け」

 邢氏(けいし)

  • 諸葛誕の乱の時、味方の孫綝に攻撃され、魏に降った孫壱の妻。大層な美人だったそうだ。
  • 元は曹芳の側室だったが、曹芳が廃位となった後、魏に降った孫壱の妻となった。だが、邢氏は嫉妬深く、下の者を酷使した。耐えきれなくなった家の者たちは、逆に邢氏を殺害、ついでに孫壱まで殺してしまう。結局、孫壱は魏に降ってから三年で死去した。

 奚煕(けいき)

  • 臨海太守。末期の呉の混乱状態を体現する小役人。
  • 奚煕は中書令だった頃に、宛陵県令の賀恵(賀邵の弟)を讒言した。それを受けて、使者の徐粲が事実関係を調べにやってくると、どうやら奚煕は不利になったらしい。そこで、今度は徐粲は賀恵の肩を持って不当な裁判をしようとしていると讒言。それを受けた孫晧は宛陵に使者をやって徐粲を殺害。賀恵を捕らえる。だが、ここで恩赦があり賀恵は罪を免れた。どうも孫晧の方で、後ろめたい所でもあったらしい。
  • 陸凱伝にも、「奚煕は甫里に水田を作ろうとしているが、無謀で出世欲に駆られての事だからやらせちゃいかん。」と孫晧に宛てた手紙がある。要するに、小役人である。
  • 奚煕は最後には反乱騒ぎまで起こす。274年には奚煕は臨海太守まで昇進していたのだが、奚煕は会稽太守の郭誕に国政を非難する書簡を送る。丁度、その頃、会稽郡では章安侯の孫奮が天子となるという妖言がはやっており、どうやら奚煕の国政非難とは、孫晧を非難し孫奮を持ち上げ、反乱をそそのかす物だったようだ。その頃が露見し、何植が奚煕を討伐するために軍を率いてくる。すると、奚煕は、兵士を集め海路を遮断し、守りを固める。だが、奚煕は部下に殺され、その首は建業に送られ、一族皆殺しとなった。
  • この反乱騒ぎにはもう一説ある。江表伝によると、奚煕は孫晧はすでに死んでいて、甥の何都が皇帝になりすましている・・・という噂を真に受けた。奚煕は何都打倒の兵を挙げたが、何植が行く手を阻み、奚煕一族は皆殺しになった。
  • どうも、呉の末期にはこうしたデマやら真相が不明な事件が多く、この反乱騒ぎもその一つだ。そもそも奚煕の反乱動機が呉末期の混乱状態を体現しており、その意味では実に時代を反映したキャラである。

 恵衢(けいく)

  • 当時の揚州状勢に関係のある人物なので外伝に載せました。
  • 孫策が江東制覇の軍を起こすちょっと前に、袁術によって指名された揚州刺史。その頃、劉繇が江東支配を固めつつあり、それに対抗する形で袁術は孫賁・呉景らに横江津・当利口を攻撃させていた。同時にこの恵衢を揚州刺史に任命しているのだが、恵衢はその後の記述がなく、以後の動きは不明。江東に出向いた様子はなく、寿春から動かないままの刺史拝命だったような感じである。つまり、恵衢の揚州刺史指名は、劉繇に対抗して、江東支配の名目を作るという意味だったと思われる。

 景養(けいよう)

  • 西湖の平民。孫晧が鳥程侯だった時に、孫晧の人相を占って「必ず高貴な身分に上がる。」と占った。孫晧はこの占いを大変喜んだ。

 厳維(げんい)

  • 242年に孫和が太子に立てられると、蔡潁・張純・封甫らと共に側近に選ばれた。

 厳凱(げんがい)

  • 厳畯の子。後に昇進して升平宮の少府になった。

 厳圭(げんけい)

  • 夷陵の戦いの後に起きた、魏の三方面侵攻作戦の時、朱桓の配下として活躍した将軍。
  • 濡須に攻め込んだ曹仁は、常彫らに5000を率いらせて濡須の中州に上陸させた。朱桓は曹仁に相対する一方で、駱統・厳圭らに中州に上陸した常彫を攻撃させ、これを打ち破った。記述を見ると、偏将軍の駱統より厳圭の方が上官であったらしく、それなりの将軍であったようだ。朱桓が別働隊を任せた辺りを見ても、信頼度が伺える。

 厳綱(げんこう)

  • 臨賀太守。239年に反乱を起こした廖式によって殺害された。

 厳爽(げんそう)

  • 厳畯の子。厳畯には、厳凱と厳爽の二人の子がいた。

 厳白虎(げんぱくこ)

  • 正史・演義を通じて、やられ役としてしか認知されないかわいそうな賊。その割には、光栄三国志シリーズに群雄として選出された事もあるラッキーな人。厳白虎が群雄?ンなわきゃーない。(笑)
  • 厳白虎は呉人。勢力を張ったのも呉周辺だった。一万余人の兵力を持っていたというから、当時かなりの反乱勢力だった。孫策が丹楊を制圧した頃には、西に祖郎、東に厳白虎と言った反乱勢力を抱えていたので、呉景・孫賁らは、先にこうした反乱勢力を潰してから、会稽を手に入れるべきだと考えていたが、孫策は違った。兎に角、版図を広げる。広げられるだけ広げた後で、反乱勢力は叩く・・・という構想を持っていた。そういう訳で、孫策の厳白虎討伐は会稽制圧が終了した後になる。時期で言うと、197年か198年。おそらく197年になる。その頃には、元の呉郡太守の許貢が戦いに敗れ、厳白虎の所に逃げ込んでいた。
  • 孫策が来ると、厳白虎は砦を高くして、守りを固める。一方で弟の厳輿を使者にして和睦を請うが、孫策は一撃で厳輿を殺害。これに肝を冷やした厳白虎は余杭の許昭の元に逃げた。
  • 一方で、孫策が厳白虎を討った背景には、徐州陣営の江東への介入という側面があったようだ。元の揚州刺史の陳瑀は呉郡太守を自称し、祖郎や厳白虎に印綬をばらまき、孫策が軍を動かした隙に丹楊の諸県を奪おうとした・・・と江表伝にある。陳瑀というのは、袁術に揚州刺史に任命されていながら袁術に寿春を追われ、従兄弟の陳登を頼って徐州に逃げ込んだ人物で、あまり才のある人物とは言えない。むしろ、陳登の影が見え隠れするのだが、いずれにしても、陳瑀は袁術への対抗心から、祖郎や厳白虎と言った反乱勢力と結託して丹楊を奪おうとしていたのだろう。また、孫策が軍を動かした隙に・・というのは、おそらく会稽制圧戦の事だ。この時期には、袁術も丹楊太守として袁胤を送り込んでおり、なかなかに孫策に取って危険な時期だった。そういう背景もあって、迅速に会稽を制圧した後、祖郎・太史慈・厳白虎ら丹楊・呉郡の反乱勢力の鎮圧に着手したようである。
  • さて、許昭の元に逃げ込んだ後の厳白虎はどうしたか?というと詳細は不明。ただし、同じく、江表伝に、孫策が廬江・豫章平定の軍を起こしたとき、陳登は厳白虎の残党に印綬を渡して、後方撹乱を企てた・・・とある。どうも厳白虎に印綬を渡すという策略は陳登の発案のようだ。だが、これを見ると、残党・・とあり、この頃にはすでに厳白虎は死んでいたような感じを受ける。許貢が殺されたのも、孫策が廬江・豫章平定の軍を起こす前であろうから、許貢が殺された時に一緒に殺されたのかもしれない。
  • さて、厳白虎というのは、どういう人種なのか?である。白虎という名は源氏名であるとしか思えず、武を頼りとする身分の低い輩という印象を受けるが、一方で許貢がその元に逃げ込んだり、逆に厳白虎が敗北した時は、名士と名高い許昭がそれを受け入れたりしていて、ただの賊ではない・・・という印象もない事はない。それなりの豪族だったのだろうか?だとしたら、相当に出来の悪い豪族ではある(笑)。

 厳武(げんぶ)

  • 字は小卿。厳畯の又従兄弟にあたる。
  • 囲碁の名人で、書家の皇象らと共に、「八絶」と呼ばれた。

 厳密(げんみつ)

  • 都尉だったが、丹楊の干拓事業推進のために浦里にダムを作る計画を立てた。
  • 孫休はこの件についての可否を議論させたが、濮陽興だけが、完成させる事ができると主張。孫休は浦里塘の建設を許可する。だが、この浦里ダムの建設は、莫大な費用と人命を費やした。これで成功していれば、NHKのプロジェクトXに取り上げられ、中島みゆきが地上の星を主題歌で歌ってくれる所だが、完成しなかったので、ジ・エンド。ただの資源と人命の浪費という訳で、厳密の名は悪名しか残らなかった。

 厳輿(げんよ)

  • 厳白虎の弟。孫策が厳白虎討伐に向かうと、和睦の使者として孫策の元に送られる。ンでもって、勇猛だったがオツムの足りなかった厳輿は、孫策におちょくられた挙げ句に、手戟で一撃で殺された。んー、ザ・やられ役(笑)。