か行「き」
祁庚(きこう)
- 会稽郡山陰の人。
- 処士(出仕しなかった人物)の優れた人物として、朱育が挙げた人。父の代りに罪を被った。
紀瞻(きせん)
- 字は思遠。光禄大夫、紀陟の子。
- 晋に仕えて驃騎将軍となった。彼についてはむしろ晋書の方に伝が立てられてそちらの方が詳しい。晋書の訳文がないのでなんとも言えないが、顧栄、薛兼らと共に、江東出身の秀才として【五儁】と呼ばれていた。晋王朝では江東の人材は、冷遇されている事が多い中、驃騎将軍にまで登ったというのはかなり異例だろう。
紀陟(きちょく)
- 字を子上。丹楊郡抹陵の人。
- 孫亮の時代に中書郎となったが、孫峻は紀陟に命じて、孫和の取り調べをさせて孫和を自殺に追い込もうとした。しかし紀陟は密かに孫和の弁護ができるように手配し、孫和は自分の弁護をすることができた。この事が原因で孫峻の怒りを買ったので、紀陟は門を閉ざして家に閉じこもった。
- 孫休の時代になると中書令となったが、父・紀亮が同時に尚書令であったため、二人が同時に朝議に参加した時は、二人の間に屏風を隔てとして置くのが慣わしとなったらしい。その後、地方に出て豫章太守となった。
- 孫晧の時代になると光禄大夫となり、魏への臣従の使者として抜擢された。紀陟は使者として立派な態度を取った事が書かれている。
- 紀陟は晋の領土に入ると、皇帝の祖先の実名と特別な風習について訊ねた。(当時、皇帝の祖先の実名を使う事は無礼な事であったので、忌み言葉とされていた。特別な風習についても同様でその地方の風習を知り無礼のないようにしたのである。)
- さらに、寿春の部将の王布が馬射(要するにやぶさめ)をやって見せ、『呉の人はこういう事ができるのか?』と聞くと(南船北馬の言葉通り、南の呉の人はこのように馬を扱えないだろう?と聞いている訳である。ようするに挑発。)紀陟は、『そういう事は軍人がやることで、ちゃんとした士大夫はそういう事はしない。』と見事に返して見せた。
- 魏帝(曹奐)が『呉王(孫晧)の様子はどうであったか?』と訊ねると、(ここで魏帝に対してあまりに謙ると国としての威信を失うし、逆に横柄すぎると怒りを買う。答え方によっては問題が起きる質問。本当はどうだったかが問題ではなく、いかに呉の体面を傷つける事なく、魏帝の怒りを買うこともなく返答するかが問われる。)紀陟は『皇帝(孫晧)は、親しく軒までお見送りになられ、百官たちも側に控え、分れの宴席でもよくお食事を食べていらっしゃいました。』と答えた。(ポイントがいくつかある。まず魏帝は【呉王は・・・】と訊ねたのに対して、紀陟は【皇帝は・・・】と返している。きちんと国としての体面を保っている。次に魏帝に対して無礼にならないように、臣従の使者である自分を、百官を従えて孫晧自身が見送りに来た・・と答えている。尚かつ、魏を恐れすぎてもいない事を示すために、孫晧が実に堂々としている様子も伝えている。)
- 次に当時、実質的な支配者だった司馬昭(文王)と謁見すると、司馬昭は百官を集め、あれが安楽王・・・これが匈奴の単于・・・と、異民族の領主たちを紹介し始めた。(実に司馬昭らしい用意周到な行動。最後まで山越賊の反乱に悩まされた呉と違い、魏はこうして異民族も従えてるという、反論のしようがない事実を突きつけているにも関わらず、実際の行動はただの人物紹介。)これには紀陟も反論のしようがなく『まさに魏の威声と恩寵が遠来の国にまで及んでいるかを示すものでしょう。』と答えた。さらに司馬昭はこうして魏の辺境防衛が万全である事を示した上で呉の防衛体制について質問を続ける。
- 『呉の防備ラインはどこまでであるか?』と司馬昭が聞くと、紀陟は『西陵から江都に至るまで5700里です。』と答える。すると司馬昭は『それだけの防衛戦を守りきるのは困難であろう。』と続ける。一度、魏が呉に攻め込めばひとたまりもあるまいということである。それに対して紀陟は『5700里と申しても、要害の地として争奪のポイントになる地は三つか四つに過ぎません。それは丁度、人体にはどこからでも病魔が入ってきそうでも、実際には病魔を防ぐために保護すべき箇所が数カ所に過ぎないのと同じであります。』と答えた。
- 実際に、それまでの呉から魏、魏から呉の侵攻ラインは多くて四カ所であり、その防御ポイントは西陵・江陵・武昌・江都程度であった。それ以上分散して侵攻しても効果が薄れる上に戦力分散が過ぎるのである。それを人体と病魔の関係に例えた紀陟の返答は、実に詭弁でもなく、しっかりとして戦略眼を持った返答である。司馬昭もこの紀陟の返答を大変気に入り、紀陟を厚く礼遇した。(捕捉。その紀陟に返答に裴松之がいちゃもんをつけていて、【本当に紀陟の返答は優れているだろうか?むしろ長距離の城壁でも防御に気を配るのは門のある数カ所だけですと答えた方が優れている。】と言っている。裴松之は時々、その私評の中でなんだかなぁ?という事を書いているが、その一例。はっきり言うと【どっちでも同じ事だパカタレ(メ▼。▼)y-~~~】である^^;。)
紀孚(きふ)
- 紀陟の子。
- 孫晧は、皇帝となると叔父たちの中で孫和と繋がりのあった者は、その一族を全て東治に移住させたが、紀陟の子の紀孚だけは、内密に勅を下して都亭侯とした。
- ・・・と待て^^;。ということは紀孚は孫晧の叔父に当たるのか?もしかしたら、紀家は孫和の外戚なのかもしれない。
紀亮(きりょう)
- 紀陟の父。
- 紀陟が中書令に任命された当時、紀陟の父の紀亮も尚書令の重職にあった。そのため二人が同席しないように、二人が同時に参列した時は、二人の間に屏風を隔てるようにした。
綦毋俊(きぶしゅん)
- 虞翻が王朗に有能な人材を聞かれた時に答えた人材の中の一人。一郡の者を危機から救ったらしい。しかし、時系列的に見て、かなり以前のお方らしいので、呉の人材ではない^^;。
媛覧(きらん)
- 孫翊を殺害したグループの一人と思われる人物。
- 媛覧は、元々は呉郡太守であった盛憲によって孝廉に推挙された人物だったが、盛憲が殺害されると、災を逃れ山中に隠れ潜んでいた。つまり山越賊として生活していた。(山越賊というのは異民族もいただろうが、媛覧のように何かの事情により逃亡生活をしていた人々も多く含まれていたようである。)しかし、孫翊が丹楊太守となると媛覧を呼び寄せて大都督として軍権を任せたのだが、その孫翊が辺洪に殺害されてしまう。孫河は媛覧らを責務を十分に果たさなかったとして、媛覧らを激しく非難した。このままでは皆殺しになると考えた媛覧らは、孫河を殺害し、魏に使者を送って揚州刺史・劉馥を頼って丹楊で反乱を起そうとしたが、孫翊の旗本の部将たちにより、反乱を起す前に殺害された。
- と、ここまでが正史の本文。これに呉歴による異説が注として書かれている。
- 媛覧らは元々、孫翊を殺害した辺洪らと親しくつき合っており、謀反を起そうと考えていた。謀反が実行されると媛覧らは辺洪に罪をかぶせて殺してしまう。媛覧はその後、孫翊の妻の徐氏も手に入れようとするが、徐氏の知略により逆に媛覧らは罠に嵌められて死亡した。・・・と、いうことである。
- 注の異説と本文で多少の食い違いはあるが、基本的に媛覧たちは初めから孫家に恨みを持っていたのは間違いないように思われる。媛覧らを推挙した盛憲を殺害したのは孫権だからだ。その流れを考えれば、孫翊・孫河殺害の首謀者は恐らく媛覧たちであろうという推測がつくのである。
曁艶(きえん)
- 字は子休。呉郡の人。
- 曁艶の父はどうやら反逆者であったらしい。だが曁艶は朱治によって起用され、後に同郡の出身の張温の元で選曹郎(おそらく官僚を選出する役職)となりやがて選曹尚書(選曹のトップ?)にまで出世した。
- 彼は人物評価を好んで行ない、官職にある者たちをランクづけして、官士たちの落ち度を厳しく指摘、多くの者を降格させた。こういう事をしていたら当然、人々に恨まれる訳で、後に罪を問われて自殺する事になる。
- さて、具体的に彼が批判した人物を挙げると、呉初代丞相の孫邵がいる。曁艶は彼をあげつらった上奏をした・・・とある。その他には具体的な名はないが、曁艶のそうした態度を批判した人物として、陸瑁・陸遜・朱拠らが挙げられる。彼らは、いずれも曁艶のやり方はいずれ災いを招く、今は多少の欠点には目をつぶって人材を集める事が必要な時期なのだ、と言っている。
- 逆に曁艶と親しかった人物としては、陳武の子・陳表、そして曁艶失脚事件に巻き込まれる事となる張温らがいる。
- こういう点を見ると、曁艶は儒教的価値観に反する孫呉での豪族たちの専横に対して、その怒りをぶつけていたようにも見える。それに対して豪族たちを味方に付ける事が重要な事であると考えている陸家や朱家の面々が、曁艶のやり方に疑問を呈している形だ。もちろん、だからと言って曁艶が正しいという訳ではない。彼自身の思い上がりが身の破滅を呼んだというのが正しい。だが、曁艶失脚事件、そしてそれに付属する張温失脚事件は、孫呉と儒教・豪族たちの微妙な関係をよく表わしている事件と言えよう。
魏遷(ぎせん)
- 上虞の人。
- 人材鑑定の才能があったと言われる虞忠に認められ、後に呉の名士となった。
魏滕(ぎとう)
- 字は周林。会稽郡上虞の人。
- 前述の魏遷が同じ上虞の出身である事を考えても、魏遷の祖先にあたるはずである。祖父の魏朗は、八俊(後漢末の清流派の英傑八人の総称。)に数えられた人物であり、かなりの名家の出身である。
- 魏滕の性格を一言で言うならば、一本気。この人物なんと孫策と孫権の両方に殺されかかっているのである^^;。
- まず、彼の名が出てくるのは孫策の時代。魏滕は功曹として孫策に仕えていたが、孫策に逆らったため殺されかけた。しかし、その魏滕の危機を救ったのが、孫堅の妻・呉夫人。呉夫人は、孫策が魏滕を殺そうとしていると聞くと、『お前は江東支配の覇業を始めたばかりで、多くの賢者・秀才を必要としている時期でしょう。今、魏滕殿を殺せば、明日にはお前に災いが降りかかります。そうなるくらいなら私はこの井戸に身を投げて死にます!!』と言って井戸に身を投げようとした。。驚いた孫策は、慌てて魏滕を釈放した。逆に考えれば、呉夫人がそこまでして魏滕殺害を止めなくてはならないほど、魏滕は大物であったと言うことだ。
- 次に魏滕の名が出てくるのは、孫権の代。またもや魏滕は殺されかかる^^;。魏滕は何かの罪を犯し、孫権はそれに怒り狂った。孫権は魏滕の助命を嘆願に来る奴は同罪で死刑だ!!という剣幕で、さすがの魏滕もここまでか・・と思えたが、またもや彼を救う人物が現れる。同郷の呉範である。呉範は自らに縄を掛けて頭を剃り、宮廷に出向くと孫権を諫めて魏滕の助命嘆願を行なった。孫権はそれをやったら死罪であると宣言していた訳で、メチャクチャ怒った^^;。激怒して戟を投げつけようとするまでに至ったが、呉範が頭を床にたたきつけ、血を流しながら懇願するので、次第に怒りが解け、やっとの事で魏滕は罪を免れたのである。魏滕は呉範に会うと、感謝を込めて『父や母はワシを生んではくれたが命を助けてはくれなかった。男同士理解しあえる友と言うのは、貴方のような人が一人おれば十分で、他の役立たずの多数の友なんぞ持っていたとしても益のない事だ。』と言った。まあ、なんと言うか魏滕の一本気な性格と、協調性のなさがよーく表れている言葉ではある^^;。
- こんな魏滕であったが、歴陽・鄱陽・山陰の三つの県令を歴任した後、鄱陽太守となっている。考えるに、魏滕の家系は祖父が八俊に数えられたほどの清流派の名家。その名家で純粋培養されると、こういう仁の精神が皮を被って歩いているような存在が生まれると言うことではないだろうか^^;?まあ、つき合いにくいタイプの人間ではありそうだ。
魏邈(ぎばく)
- 孫休の時代の将軍。
- 孫綝が武昌に駐屯して荊州の軍事を担当したいと言ってきた時に、『孫綝を地方に出せば必ず謀反を起すでしょう。』と進言し、孫綝抹殺を孫休に決意させた。魏滕との関係は不明。
許晏(きょあん)
- 孫権の代の執金吾。張弥と共に、使者として遼東の公孫度の元に行くが、公孫度によって殺害され、その首は魏に送られた。
- 魏書にも結構、名前が出てくるが、それは公孫度が魏に出した手紙にやたらと名前が出てくるからである。それ以外の記述としては、張温伝の記述の中に、豫章で山越賊を軍団に編成する仕事をやっていたらしい事が書かれている。
許乾(きょかん)
- 劉曄伝に出てくる揚州の賊。孫呉とは直接の関係はない。
- では、どうして外伝に上げたかというと、劉曄伝の許乾の記述の所に、当時の揚州の情勢が示されている一文があるからである。劉曄伝には【揚州には、軽はずみな男だてや、ずる賢いあらくれが多く・・・】とある。孫策伝を読んでいても、いかに長江を隔てた揚州南部が無法地帯だったかが分るのである。そんな揚州の地になぜ劉曄が行かなくては成らなかったか?それはひとえに、それでもまだ争いの続く中原より揚州の方が安全だったから、である。
許貢(きょこう)
- さて、出てきました。孫策殺害の謎に深く関わる人物です。
- 彼の記述を見ていくと、まずは蜀志・許靖伝。許靖は揚州に来るまで各地を転々としますが、揚州刺史・陳褘が死ぬと、幼なじみの許貢と会稽太守・王朗を頼った・・・とあります。これを見ると許貢・許靖・王朗らは仲良しグループで、当時の情報ネットワークで、互いの才を認め合った英才同士・・という感じがしますが、孫ぽこ的にはどうもこれは違うような気がします。許靖と王朗は若い頃から名の知れた名士ですが、許貢はその行動を見る限り、どうも荒くれに近い感じがするのです。つまり、王朗・許靖は共に才を認め合った仲ではあったが、許貢に関しては、ただ許靖の幼なじみだった・・・だけという感じがします。そう考えると、同じ許姓ですし、幼なじみであると言うことは許靖と許貢は同族なのかもしれません。その辺は、【無人書院】さんの【思而不学】で、所見が述べられています。しかしそう考えると、孫策が江東を支配した時、許靖がなぜ交州まで逃げなくてはならなかったのか?という点に、一応説明がつきます。
- 次に出てくるのは呉志・孫堅伝。曹操軍に加わり、孫堅と豫章の支配を巡って戦った周顒は、故郷に帰った所を許貢に殺された・・・とあります。さらに、呉志・孫策伝では、許貢の名がいくつか見られますが、孫策伝を見ると、許貢が正式な呉郡太守ではなかった事が分ります。元の呉郡太守は、外伝でも何回か名前が出てきた盛憲と言う人でした。許貢は呉郡都尉だったのです。しかし許貢は盛憲を追い出し、自分が呉郡太守となります。この頃は丹楊郡でも豫章郡でも、太守の座を巡って争いが起きており、呉郡で許貢が無道を働いても特に差し障りがなかったようです。こうした点を見ても許貢が許靖同様の名士だったとはとても思えません。
- さて、許貢が呉郡太守の盛憲を追い出して、自らが呉郡太守となったのは、丹楊・豫章でも同様の太守を巡る争いが起きていた193年前後、つまり孫策が江東平定の戦いを始めた少し前、と見て良いだろう。その後許貢は呉郡に侵入してきた朱治軍に敗れ、南へと下り厳白虎を頼った。時系列で考えると、朱治に敗れたのが196年頃になる。
- さて、許貢がらみではもう一つ、孫策の異名である【小覇王】の名の由来となったと思われる記述がある。許貢は、朝廷に【孫策は武芸に秀でていて、いにしえの項羽と同様です。どうか都に召し上げて官位を与えてください。地方においておくと必ず災いを成します。】と上奏しているのである。孫策と項羽を比べる記述があるのは正史ではここだけで、この記述が後の【小覇王】という異名の元になったというのは、想像可能である。問題はこの上奏がいつ行なわれたのか?だ。
- 孫策伝によると、この上奏の事を知った孫策は、許貢と面談し、この事について詰問し殺害した・・・とある。しかし、許貢は呉郡を巡る争いで朱治に敗れ厳白虎を頼ったのであるから、許貢が呉郡太守だった頃に、この上奏が行なわれた可能性は低い。というかあり得ない。ということは、彼が敗れて厳白虎の元にいた頃に、この上奏をした事になる。さらに厳白虎について言えば、彼の背後で陳登が糸を引いていたのは明白であり、どうもこの頃から許貢の言動は怪しい。厳白虎の元に行ったのも、孫策と対抗できる勢力と繋がりを持っておくためという感が否めない。つまり、許貢は失地回復を目論んでいたのではないか?と思えるのである。
- それと、陳登などが孫策へ対抗するための策略を練っていた点、許貢が朝廷に上奏を行なった点などを総合的に考えると、打倒孫策のための策略をこの頃から練り続けていたのではないだろうか?そう考えると、後に許貢の食客が孫策を殺害した点についても、暗殺のためにそういう食客を手元においていた可能性がある。そして、厳白虎が敗れたと同時に、許貢は孫策に捕らえられ、上奏文の一件を理由に殺害された・・・のではないだろうか?そういう意味では、あくまでも打倒孫策に燃えた許貢の執念が、許貢死後、ついに孫策を捕らえた・・・と言えなくもない。
許邵(きょしょう)
- やたら長くなったので「三国雑談」に転載。
許昌(きょしょう)
- 会稽の妖賊(宗教的反乱者)。172年、句章で反乱を起し、自らを陽明皇帝と称し、父を越王の位につけた。息子の許韶と共に近隣の県で暴れ回ったが、孫堅によって討伐された。実質的な孫堅の初陣である。この功績により孫堅は、塩涜県の丞(県令の補佐役)となった。
許昭(きょしょう)
- 元・呉軍太守の盛憲の部下だったらしい。盛憲が許貢に殺されそうになった時には盛憲をかくまい、友であった厳白虎が孫策に敗れた時にも彼をかくまった。程普は許昭を討つべきと進言したが、孫策は許昭の人柄を高く買っていたようで、【許昭は君主への忠を忘れず、友への誠を尽くしている。大丈夫たる者が心がけるべき事だ。】と言い、攻撃を差し控えた。
許韶(きょしょう)
- 会稽で反乱を起した陽明皇帝こと、許昌の子。別名で許昭とも書く。ちくまの索引では、上記の許昭とごっちゃになっているが、同一人物とは考えにくい。
許旻(きょびん)
- 250年、呉の皇太子問題(二宮の変)の混乱に乗じて、江陵に進軍した王昶に斬られた呉の武将。魏書にしか出てこないいわゆるやられ役。
喬公(きょうこう)
- 孫策と周瑜が妻とした大喬・小喬の父。皖城を攻め落とした時に二喬は捕虜となっている。公というのは名前ではなく、【ミスター喬】って感じの意味。
- さて、この喬公。一体何者だろうか?曹操を高く評価した橋玄だという説もある。だが、橋玄は梁(豫州)の人であり、この時期に廬江郡にいる可能性は低いと思われる。人脈をたどるなら、袁術軍の武将である喬蕤の一族の可能性の方が高そうだ。
金奇(きんき)
- 丹楊郡の人。一万戸を配下に治め、安勒山に立て籠もったが、賀斉に討たれた。