か行「か」

 何洪(かこう)

  • 孫晧の時代に猛威を振るった外戚・何一族の一人。
  • 何一族は、孫和の側室で孫晧の母である何姫の一族である。親族に対して異常なほどの執着を見せた孫晧は、何一族を重用した。孫晧が皇帝となると、何姫の弟である何洪は永平侯に任命された。
  • 外戚・何一族の系譜は
    • 何遂→何姫  
        →何洪→何邈
        →何蒋(→何都)
        →何植
    ・・となっている。

 何蒋(かしょう)

  • 何姫の弟。孫晧が即位すると溧陽侯に任じられた。

 何植(かしょく)

  • 何姫の弟。孫晧が即位すると宣城侯に任じられた。
  • 何一族の中では、特に重用された人物で、三郡督(おそらく、牛渚都督・備海都督など三カ所の重要地点の軍事司令官)として奚煕討伐の軍を指揮したり、279年には牛渚都督から司徒に昇進、呉の滅亡の時には孫晧から直々に事後処理を託す手紙をもらったりしている。おそらく、孫晧の懐刀のような役割を担っていたのであろう。

 何遂(かすい)

  • 孫晧の母、何姫の父。
  • 何遂は、騎兵であったとありただの兵卒である。孫権は軍営の巡回中に何姫を見て、一目で気に入り後宮に入れた後、息子の孫和に嫁がせた。

 何定(かてい)

  • 汝南の生まれで、元は孫権の給使(使いっぱ)である。おべんちゃらが得意で、孫晧の時代になるとたくみに孫晧に取り入り、楼下都尉(酒・米の購入係)となり、さらに出世を重ね、殿中列将(おそらく近衛兵の隊長)となった。
  • とにかく、この男ろくな事はしていない。少府の李勖の讒言をするわ、孫秀の監視をしようとして逆に孫秀の晋への亡命を誘発させるわ、実現が難しい運河の建設を進言して薛榮を左遷させるわ、自分の事を【佞臣】と面と向かって言い放った陸凱を恨んで中傷を繰り返すわ、犬好きが高じて一匹が絹数千匹に値する高価な犬を各地から集め、その犬に一万銭のつなぎ紐をつけ、一匹の犬に一人の兵士を養育係としてつける有様。陸凱の上奏文でも徹底的に叩かれており、【狩りの共をする鷹や犬ほどにも役に立たない】【みだりに国政に口を出し、徴用労役を起こし、守備兵を使って鹿を追わせ、各地の獣を狩り(おそらく犬を集めていると言う事。)檻に入れている】とある。それでも孫晧は何定を重用して、ついに列侯の爵位まで与えた。
  • しかし272年には、悪事が発覚して誅殺された。その悪事が張布と似ていたということで、何定の事は、以後何布と呼ぶようになったと言う。個人的には無能であったとは言え、一応、高官で国政を携わるべき地位にあった張布と、この何定とでは比べるのもおこがましいように思うが?

 何典(かてん)

  • 孫晧の時代に交州で反乱を起した郭馬の配下。何典は蒼梧郡に兵を進めていたらしい。

 何都(かと)

  • 孫晧の外戚の何一族の一人。おそらく何洪か何蒋の子。
  • 孫晧とは従兄弟に当たり、顔立ちも良く似ていた。そのため、呉の国政が乱れると【孫晧はすでに死んでおり、今皇帝の座にいるのは何都である。】という噂が流れた。臨海太守の奚煕はその噂を真に受けて、何都を誅殺しようと兵を挙げたが、逆に何都の叔父の何植によって討伐された。
  • これ以外にも孫晧は途中で死んでいて、影武者が孫晧になりすましているという逸話は存在する。確かに皇帝即位直後の孫晧は比較的、良政を行なっていたと見られ、その後の暴君と化した孫晧と同一人物とは、民衆には思えなかったのかもしれない。

 何邈(かばく)

  • 孫晧の外戚の何一族の一人。何洪の子。
  • 何洪の後を継いで、武陵の監軍となったとある。しかし、晋軍の呉進行作戦により死亡した。

 何雄(かゆう)

  • 孫策の時代に、侯官の県長・商升の部将だった張雅の娘婿。
  • はっきりとは分からないが、賀斉伝を読む限り、張雅も何雄も山越賊の頭目のようである。元々張雅は王朗を守り立てて孫策に反旗を翻した商升の部下だったが、商升が孫策への帰順を決めると、商升を殺害して孫策に対抗した。
  • 賀斉は張雅の軍勢の数が圧倒的に多い事から、しばらく様子見に徹し、張雅と娘婿の何雄が反目し始めたのを見計らって両者を討伐した。

 夏侯承(かこうしょう)

  • 呉唯一の夏侯姓。
  • 歩隲が孫登に送った荊州で結果を出している人物の名前の中に夏侯承の名が見える。

 華錡(かき)

  • 諸葛恪が孫奮を諫めた文書の中に名前が見られる。
  • 華錡は、孫権の側近であったが、孫奮は彼の言動に腹を立て、華錡を束縛しているという噂があると、諸葛恪は書いている。

 華歆(かきん)

  • 華歆は魏書に伝が立てられている大物。魏だけでなく呉にも関係があるので外伝としてアップしました。
  • 字は子魚。平原郡高唐の人。若くして邴原・管寧らと交友を結び、この三人をさして【華歆は龍の頭、邴原は龍の腹、管寧は龍の尾】であるとして【一龍】と呼ばれていた逸材だった。
  • 霊帝が崩御すると、鄭泰・荀攸らと共に都に呼び出され、尚書郎となったが、董卓が実権を握ると、乱をさけ南陽に逃れた。当時、南陽は袁術の支配下であったため、結果として華歆は袁術配下になった。そこで華歆は袁術に董卓を討つように進言したが、袁術自身が一向に動こうとしない。華歆は袁術に見切りをつけて故郷に帰ろうとしたのだが、その道中で豫章太守の令を受けたのである。(ただし、この太守任命の時期については、疑問もある。劉繇が丹楊を追われ豫章に逃げた当時、豫章を治めていたのは朱晧であり、朱晧は正式に朝廷から任命された豫章太守である。また、華歆伝にも【私は正式に漢から任命された訳ではないが、劉繇殿から直接任命されたのだから、正式な太守と考えて良い。】という意味の発言があり、これらを考えると朱晧が笮融に殺された後、劉繇が華歆を豫章太守に任命した可能性も高い。ただしそうなると、劉繇が死んだ時、華歆がその残存勢力を受け入れなかった理由と、袁術に見切りを就けた華歆がなぜ、劉繇の配下にいたのかが疑問ではある。)
  • 豫章太守となった華歆は、政務に尽力したが、豫章という土地は文治が可能な土地とは言い難く、武力的背景のない華歆にとっては厳しい物だったようで、
    • 華歆は、立派な徳を持っているが、各地の反乱を抑え込む力はない。(太史慈伝)
    • 劉勲は華歆に食料の援助を求めたが、華歆の所でも食料が不足していた。(孫策伝)
    • 華歆はそれなりの評判を得ているが、兵器の準備もはなはだ不足している。(虞翻伝)
    • 食料の備蓄・兵器の精度・兵や民衆の勇敢さ、いずれでも豫章郡は会稽郡に及ばない。(虞翻伝)
    と、華歆自身の名声は兎も角、豫章郡の防御力は弱く、とても孫策に対抗できる物ではなかったようだ。
  • しかし、劉繇が豫章郡で死去すると、その残存兵力を華歆が吸収するチャンスが訪れた。だが、華歆は【時勢を利用して勝手に権限を広げるのは義に反する。】として劉繇の残存勢力を受け入れる事はなかった。筋を重んじる華歆らしい判断であるが、もう一つの判断基準として、おらそく【劉繇の残存兵力を受け入れると、孫策と対峙する事になる。】という判断もあっただろうと思われる。
  • やがて、孫策が豫章郡攻略に乗り出すと、孫策は虞翻を使者として豫章明け渡しを説得させ、華歆は反抗の意志がない事を示し、隠者の頭巾を被って孫策を迎え入れた。こうして華歆は孫策の客として迎えられたのである。
  • さて、では華歆は孫呉政権に参入する気があったのかというと、答えはノーであったと言えるだろう。記述の中にも華歆が孫策の配下になったとは書かれておらず、孫策が上客として迎えた・・・とあるだけだ。また、【私(華歆)は長らく北に帰りたいと思っていた。(華歆伝)】とあり、時の勢いが孫策にあったから一時的に孫家の客となった・・という解釈が正しいだろう。むしろ、豫章を攻略された時点で華歆が故郷に戻らず、孫策の客として留まった方が不可思議な感じすらする。多少なりとも孫策という人物に興味があったのだろうか?
  • そういう訳なので、孫策が死去して、曹操から都に来るようにお呼びがかかると華歆としては、もやは江東に留まる理由もなく、孫権の元を離れた。その後は魏有数の政治家として活躍し、尚書・侍中→尚書令→軍師→御史大夫→相国→司徒→博平侯・大尉と昇進を重ね、曹操・曹丕・曹叡と三代に仕える重臣となったのである。
  • 華歆のエピソードとして意外なのが【華独座】のエピソードだ。実は彼はメチャメチャ酒が強かった。しかもとんでもない飲んべえだったのである^^;。【華歆はよく痛飲し、一石余り飲んでも一切普段と変らなかった。ただよーく見ると衣服を整える様子がいつもとちょっと違っていた。】らしい。もう少し孫権の所にいたら同じ大酒飲み同士、意気投合できたのではなかろうか^^;。まあでも、酒癖の悪い孫権と酒を飲んでも一切乱れない華歆とでは種が違うとも言える。やっぱり華歆と孫権は合わなかったのかもしれない。

 華諝(かしょう)

  • 左将軍となった華融の長子。
  • 華諝は、孫亮の時代に黄門郎(皇帝に侍従し、禁中に出入りして詔命を伝達する。)となったが、孫綝と滕胤の争いに巻き込まれ、滕胤に父共々殺された。

 華譚(かたん)

  • 左将軍となった華融の次男。
  • 弁論が巧みで、呉が滅びた後、晋に仕え秘書監(帝直属の図書作成部門所長)となった。

 華当(かとう)

  • 賀斉伝に出てくる山越賊の領主の一人。
  • 203年頃の会稽郡に存在していた7つの山越部族の一人。おおよそ一万戸が付き従っていた。華当ら5つの部族の本拠は漢興という所にあった。そのため賀斉は漢興討伐を行ない、見事これらの部族を討ち、華当らは賀斉に降伏した。

 華融(かゆう)

  • 字は徳蕤。広陵郡江都の人。
  • 華融は元々は広陵(徐州)出身出身だが、祖父が乱を逃れて江東に移住し、山陰県の蕊山という所に住んでいた。ある時、張温が皇象の所で学問を学ぼうとし、どこか仮住まいできる所はないかと訊ねたところ、ある者が【蕊山に華融という若いが立派な志を持っている者がいるから、そこに仮住まいされると良いでしょう。】と言ったので、張温は彼の家に泊まる事にした。そこで張温と華融は朝夕論談を交わし、やがて張温が選部尚書(おそらく人材担当か?)となると、華融を太子庶子(太子の世話係)に抜擢した。太子府に抜擢されるということは、つまり次代を背負う人材として期待されたと言うことである。
  • こうして役人となった華融は次第に頭角を現し、孫登に認められるようになる。孫登はその遺言にも【華融は、勇敢で断固として節度を持ち、国士の風あり。】と称えており、文官としてよりも武官としての適正があったようだ。
  • こうして孫亮の時代になると、華融は侍中・左将軍にまで昇進した。だが、華融は不運にも孫綝と滕胤の争いに巻き込まれてしまう。呂拠のクーデターが発覚すると、孫綝はその背後に滕胤がいる事を察知し、華融を滕胤の元に派遣し任地の武昌に行くように伝える。が、滕胤は身の危険を察し華融らを軟禁し、さらに兵を集めて守りを固めた。孫綝が滕胤を包囲すると、滕胤は華融に偽の勅書を書かせて軍を動員しようとしたが、華融が言うことを聞かないので、長子の華諝共々、殺してしまったのである。
  • 滕胤は孫峻・孫綝らの専政が行なわれる中で、まともな政治感覚を持っている人物だったが、クーデターの発覚と共に、偽の勅書を書かせようとするなど、滕胤とは思えない行動を取っている。華融などは、呉にとって有益な人物であった事は間違えなく、このような内紛の犠牲になったのは、なんとも残念な事だ。

 賀恵(がけい)

  • 孫晧の時代の太子太傅・中書令の賀邵の弟。賀斉の子孫に当たる。賀斉に発する賀一族は、呉で有力な豪族となった。その家系は、
    • 慶純→賀輔→賀斉→賀達→賀質
              →賀景→賀邵→賀循
                 →賀恵
    となっている。
  • 賀恵は孫晧の時代に、宛陵県令となっていたが、中書令の奚煕に讒言され、処罰された。その後、恩赦があり放免された。

 賀景(がけい)

  • 賀斉の次男。
  • 賀景は父譲りの優れた武将であり、配下を厳格かつ思いやりを持って指揮していた。その部隊の兵器が完全に装備されている点では当時並ぶ者がなかったと言う。
  • 滅賊校尉に任じられていたが、若くして死去した。息子に賀邵がいる。

 賀質(がしつ)

  • 賀斉の孫。虎牙将軍の位にまで昇ったらしい。

 賀循(がじゅん)

  • 孫晧の時代に太子太傅となった賀邵の子。字は彦先。
  • 父・賀邵の流刑に伴い、地方に配流されていたが、呉の滅亡と共に、やっと故郷に戻る事ができた。彼は、礼儀作法もしっかりしており、学問を好んで広い知識を持っていたらしい。特に三礼(儀礼・周礼・礼記)に詳しく、晋代になって陽羨県と武康県の県令に任じられた。後に顧栄・陸機・陸雲ら晋に仕えた呉の豪族たちに推挙され、(その推挙文が賀邵伝に載っているが、なんとも呉の豪族たちの晋での不遇の様子が見て取れる。【愚かで狭い了見での考えではありますが・・・】【死罪を冒して敢えて上奏したいと思い・・・】と、たかだか一人推挙するのに死罪を覚悟とは、悲しい話しではある。)賀循は中央に召し出され、太子舎人となった。
  • その後、江東では孫呉政権の再来を目指した陳敏の乱が起きる。その陳敏の乱には、旧・呉の豪族の子孫たちがこぞって参加したのであるが、賀循は、陳敏の推挙を堅く固辞して受け取らなかった。
  • 彼の運が開けたのはさらに後になる。後の東晋の創始者の司馬叡が、建業(当時は健康)に赴任すると、賀循はその軍司馬となった。そして司馬叡が東晋王朝を設立すると、太常・太子太傅を兼任し、宗廟の祭祀の決まりなど様々な事柄について意見を求められ、東晋の重要人物の一人となったのである。彼は60才で319年に死去した。死後に司空の位が贈られている。なんとも賀家は、孫呉に始まり、ついにその末裔が東晋にまで生き残ったのである。

 賀達(がたつ)

  • 賀斉の子。
  • 張弥・許晏らと共に、遼東に出向き、公孫淵を燕王に封じたが、逆に公孫淵に殺された。
  • 賀斉伝には、賀達は優れた才能があったが、わがままな所があり、しばしば掟に背いたため、爵位は与えられなかった。しかし物惜しみをせず、決断力を備え果敢な事では抜きんでていたとある。

 賀輔(がほ)

  • 賀斉の父。永寧県の県令を務めていた。

 賈原(かげん)

  • 張温の部下。彼を御史にしようとした事が、張温失脚の原因の一つとなっている。
  • 張温のそういう行為が増長と取られたのだ。しかし、駱統の弁明文には、【張温は賈原がいい加減な仕事をした時、張温は面と向かって非難し弾劾したのであって、張温が賈原に含む所があったとは言い難い。】とあり、どうも賈原自身には、さほど才能はなかったようである。

 介象(かいしょう)

  • 字を元則。会稽郡の人。
  • 数々の方術に長じていて、孫権は介象を武昌に招き寄せ、彼のために屋敷を建てて、度々貢ぎ物を送ったという。孫権は介象から隠形の術を学び、姿を隠したまま宮殿を出入りして見たところ、誰も孫権に気がつかなかったという^^;。マジか^^;。また介象に命じて変化の術をかけさせると、瓜や野菜が瞬く間に成長して、実がなったという。
  • ある時、孫権が刺身では何が一番うまいか雑談していたら、介象が『鯔(ぼら)が一番うまいでしょう。』と言ったので、孫権は『鯔は海の魚で、長江沿いでは手に入らないぞ?』と言ったところ、介象は宮殿の庭に穴を掘って、そこに水を満たして釣りを始めた。まもなく釣り糸に鯔がかかった。孫権は喜んで『聞けば蜀の使者が来たとき、蜀の茗荷(みょうが)が手に入って、それで和え物を作ったら非常にうまかったそうだ。その時にこの魚があったら最高だったのになぁ?』と言うと、介象は『蜀の茗荷はそんなに手に入りにくい物ではありません。』と言い、側近の者に金を与えてお札を一枚書くと、それを青竹の杖の中に差し込み、『杖にまたがり、杖が止まった所で茗荷を買いなさい。』と言う。その者が言われた通りにすると、成都の市場に着いていた。しかも、丁度その時、蜀に使者として出向いていた張温が市場にいて(ちょっとなぁ^^;)、張温はその使者に手紙を持たせた。この使者が茗荷を買って杖にまたがって呉に戻ってきたら、丁度、鯔の刺身が出来上がった所だった・・・・と言う。
  • この介象の逸話を載せたのは裴松之だが、さすがにこれは怪しすぎると思ったのか、後書きで『これらの記述は人を惑わせる物』と書いてある。さらにその裴松之の後書きに対して、後世の人の反論が混じっていて、『神仙の術を普通の人間が計り知る事ができないのは、夏の虫が冬の氷を知らないのと同じで、裴松之がこれらの記述を人を惑わす物としたのは、間違いだ。』とある。裴松之は南朝・宋の人だが、その時代になっても、こうした仙人にまつわる虚実が結構信じられていたという事である。
  • さて、現代の我々から考えると、介象が行なったのは奇術、つまり手品の類ではなかろうかという事は予想できる。何もない所から魚を出したり、杖にまたがって時空を越え、その証拠として向こうにいるはずの人間の手紙を持たせるといった手口がいかにもそれらしい。ただし、中国では気功術などいまでに解明できない神秘的手法がある事も確かだ。

 懐叙(かいじょ)

  • 呂壱の悪事が発覚した時、その面前で呂壱を罵倒した。当時の官位は尚書郎とある。
  • 顧雍は懐叙のこうした行動を批判して、『定まった法律に基づいて裁判は行なわれるべきであり、そのような事をしてはならない。』と諭した。
  • この懐叙の行動と顧雍の論は、議論になったようで、徐衆の『三国評』では、懐叙の行動を【仁】であるとし、顧雍を批判している。不仁なる者を罵倒するのは仁であると言うことだ。対して顧雍の考えは、国家の法を尊重する態度であり、儒学的というより法家的という感じがする。

 郝普(かくふ)

  • 元は蜀の零陵太守。
  • 孫権の荊州侵攻の時、呂蒙は長沙・桂陽・零陵の三郡の攻略を任されていたのだが、零陵の郝普だけは降伏しなかった。そうこうしているうちに劉備が公安にまで戻ってきたので、孫権は呂蒙に戻ってくるように指令を出したのだが、呂蒙はここで一計を立てる。
  • 呂蒙は郝普の友人の鄧玄之を使者に立てて『いくら援軍を待っても、劉備は漢中で夏侯淵の包囲を受けている。無駄死にになるから、降伏された方が身のためだ。』と説いたのである。この呂蒙の策略を信じた郝普は、城を明け渡した。所が、城を明け渡した後に、実は劉備が公安まで来ていた事を知り、床に倒れて悔やんだと言う。
  • その後、郝普は呉政権に参入して廷尉にまで昇進した。このあたり、騙されてしまったものはしょうがないという感じで、ナカナカに柔軟性はあるようだ^^;。
  • ところがである。彼はまたもや計略に嵌る。あの【埋伏の毒】こと隠蕃にまんまと騙され、隠蕃と親しく交友し、郝普は、『隠蕃は不当な処遇を受けている。』と、満場の前で不満を漏らしたのである。後に隠蕃が謀反を計ると、孫権も郝普の騙され上手ぶりにさすがにあきれ果てたのか、『貴方が、隠蕃を賞賛し彼が不当な扱いを受けている、なんて事を言うからこんな事になるのだ!!』と言い、郝普を問責した。一度ならずも二度も計略に引っかかった郝普は、これを恥じて自害した。
  • まあ、なんというか、お人好しだったんでしょうね^^;。

 郭石(かくせき)

  • 長沙の区星の乱に乗じて、零陵・桂陽で反乱を起した。
  • 孫堅は区星の乱を平定すると、国境を越えて討伐軍を起こし、これを討伐した。

 郭逴(かくたく)

  • 孫晧が即位した時に、楼玄・王蕃・万彧らと共に、散騎中常侍に任命された。この4名のうち、最も知名度が低いのがこの郭逴^^;。
  • でも、陸凱の上奏文にも、信用できる人物の一人として挙げられており、その後の記述がないと言うことは、若死にした可能性が高い感じがする。

 郭誕(かくたん)

  • 孫晧の時代の会稽太守。
  • その頃、郭誕の周りでは二つの事件が起きていた。一つは臨海太守・奚煕が、国政を批判する文書を送りつけてきた事、もう一つは孫奮が天子になるだろうという妖言が流行っていた事である。郭誕はそのうち、奚煕が国政を批判した事は上奏したが、孫奮が天子になるという妖言が流行っている事は上奏しなかった。
  • その事が孫晧に知れると、孫晧は怒り、郭誕を逮捕したが、功曹の邵躊の自らを犠牲とした進言により死罪を免れ、健安に移住させられ、造船の労役に従事させられた。

 郭馬(かくば)

  • 孫晧の時代に交州で反乱を起した人物。
  • 郭馬は、元々は合浦太守であった脩允配下の私兵団の団長である。どうやら交州土着の豪族と見て良さそうだ。やがて脩允は桂林太守に転属となったが、病気のために交州に留まり、先に郭馬を派遣し、異民族の統治に当たらせていた。脩允が死ぬと、郭馬の部隊はバラバラに配置される事が決定したが、郭馬の私兵は先祖以来、ずっと一つの私兵団を形成していたので、その決定には到底納得できない。そこで郭馬は、呉が不安定な状況になっている事を利用して、謀反を起す事にしたように思われる。
  • さらに孫晧は、広州の戸籍の調査を行なおうとしていた。これはつまり、広州では戸籍に含まれず、租税対象となっていない者たちが多く存在していたという事の裏返しである。これ(戸籍調査)をされると困るのは、交州・広州の異民族であり、特定の権利をもつ土着の豪族であった。そこで郭馬はそうした不安を煽り、何典・王族・呉述・殷興らの部下と共に、広州督の虞授を攻撃して殺害。さらに蒼吾郡・始興郡まで勢力を伸ばした一大反乱に発展したのである。
  • これに対して、孫晧は滕循に郭馬の乱の討伐に向かわせるが、始興で王族軍と対峙している間に、郭馬は南海郡・を攻略、さらに広州刺史の徐旗を追い払う。孫晧はさらに陶濬・陶璜を派遣し、郭馬を東西から攻撃させた。しかし、その年の暮れには、すでに晋の大部隊が呉征服の軍を起しており、陶濬は郭馬の乱の討伐に向かえなかったのである。
  • 郭馬の乱は呉の末期を象徴する反乱であるだろう。私兵団(豪族)を抑える力が呉になくなっていた事が、すでに呉の国家としての力の衰退を表わしているし、この反乱をすぐに鎮圧できなかった事が、晋の征呉戦への呼び水となっていたのである。

 葛奚(かつけい)

  • 鴻臚(外交府の役人)だったが、酒宴の席で酔った末に、孫晧の耳に逆らう言葉を発し、怒った孫晧に強い酒をむりやり飲まされてそれが元で中毒となって命を落した。数多い孫晧の被害者の一人。

 葛光(かつこう)

  • 凌統の息子の、凌烈と凌封の二人の養育を孫権に任された。

 葛衡(かつこう)

  • 別の名を葛衜。字は思真。
  • 天文と器械に詳しく、天体儀を作った。それは大地を中心に天体が回転して、実際の天体の運行と一致したらしい。

 葛仙公(かつせんこう)

  • 【抱朴子】に出てくる呉の仙人。
  • 酒が大好きで、いつも酒を飲んでは酔っぱらって、人の家の池の中で熟睡する。ある時、孫権のお供をして船に乗った所、暴風雨で葛仙公の船が沈み、みんな葛仙公は死んだと思った。しばらくしたら葛仙公が水上を歩いて来て、【ちょっと伍子胥(春秋時代の呉の将軍)と飲んでました。】と言ったと言う。衣服や履き物は一切濡れておらず酒気を帯びていた。
  • 葛姓の呉の出身者では、後に東晋の葛洪がいる。葛洪については三国雑談の【諸葛一族と葛一族のミステリー】をどうぞ。

 葛都尉(かつとい)

  • 都尉というのは役職名。つまり名は不明。
  • 公孫淵の手紙の中に出てくる、呉から公孫淵への使者として送られた人物。おそらく、ここに出てくる葛奚か葛光ではなかろうか?

 毋丘秀(かんきゅうしゅう)

  • 魏の鎮東将軍、毋丘倹の弟。
  • 反乱を起した毋丘倹が殺害されると呉に亡命した。

 毋丘宗(かんきゅうそう)

  • 魏の鎮東将軍、毋丘倹の子。
  • 毋丘倹が反乱を起したとき、毋丘宗ら4人の子は呉に派遣されていた。呉が滅びると晋に帰還し、零陵太守となった。

 毋丘重(かんきゅうちょう)

  • 魏の鎮東将軍、毋丘倹の孫。
  • 反乱を起した毋丘倹が殺害されると呉に亡命した。

 甘懐(かんかい)

  • 甘寧の子。甘寧の死後、罪を犯して会稽郡に強制移住させられ、その地で死去した。
  • 呉書を読んでいると【○○郡に強制移住させられた・・・】という記述がよく出てくる。どうも強制移住とか流刑とか聞くと、どうも島流し的なイメージを受けるが、どうもそうではなく、どちらかというと官位を剥奪されて、未開地の開拓事業に従事されられた・・・という感じらしい。一種の罰ゲーム的感覚か(笑)??強制移住の後、また中央府に戻ってくるという人物も、これまた結構いるのである。

 甘醴(かんれい)

  • 孫権に反逆した士徽の部将。呂岱に敗れた。甘寧とはなんの繋がりもない(と思われる^^;。)

 桓彝(かんい)

  • 魏の尚書令の桓階の弟。
  • 桓階は魏に仕えたが、弟の桓彝は呉に仕えたらしい。孫峻が孫亮廃位のクーデターを起したとき、孫亮廃位の署名文に署名するのを拒絶し、孫峻に殺害されている。桓彝は薛螢にも【忠貞の節操あり。】と称えられている。

 桓階(かんかい)

  • 字は伯緖。長沙郡、臨湘の人。
  • 長沙で功曹として孫堅に仕えた。孫堅は彼を孝廉として朝廷に推挙したが、丁度、父が死去したので長沙に帰っていた。その時、孫堅が劉表と戦い戦死した。桓階は長沙の役人であるから当然孫堅派閥なのだが、危険を顧みず孫堅の遺骸を譲り受けるために劉表の元に出頭し、見事孫堅の遺骸を劉表から譲り受けるのに成功したのである。
  • その後は荊州で反・劉表派として暗躍し、曹操が荊州に入るとその幕下に加わった。その後、曹丕に重用され、尚書令として禅譲の儀式の中心的役割を果たしている。

 桓治(かんち)

  • 【東京ラブストーリー】の主人公。
    ・・・
    ・・・・・
    ・・・・・・・わかんねぇって(T▽T)。
  • 士徽の部将。呂岱と戦って敗れた。

 桓発(かんはつ)

  • 桓燐の子。桓治と共に呂岱と戦った。

 桓慮(かんりょ)

  • 前司馬(軍事担当官)であったが、孫峻に殺された孫和を悼む人々の気持ちを利用して、孫峻誅殺を試みたが、露見して孫峻に殺された。

 桓燐(かんりん)

  • ロシアの英雄。人間では歯が立たず、彼を倒すにはゴリラに格闘技を教えるしかないとまで言われた。
    ・・・
    ・・・・・
    ・・・・・・そりゃカレリンだって(T▽T)。
  • 士徽の部将。呂岱と戦って敗れた。

 管篤(かんとく)

  • 公孫越への使者として遼東に派遣された校尉。

 韓晏(かんあん)

  • 永寧県長であったが、孫策に仕えて王朗討伐軍の大将として南部都尉に任命された。しかし、商升に打ち破られた。そして韓晏の替りに南部都尉に任命されたのが、賀斉なのである。

 韓綜(かんそう)

  • 韓当の子。
  • 孫堅以来の宿将の子でありながら、呉を裏切り魏に走ったため、低い評価しか与えられていないが、正史の記述を考察すると、どうもバカではないし、軍の司令官としても有能だ。
  • まず、彼が呉を裏切ったのは227年の12月。石亭の戦いの約半年前になる。陳寿の本文では【韓綜は淫乱にふけり、無礼を働いた。】とあるが、注の【呉書】には、【韓綜は、呉に背こうと思ったが、このままでは配下がついてこないので、わざと配下に無法を許可し、その事で韓綜が諮問を受ける事になったとデマを飛ばしたので、配下も呉に背くしかないと考えるようになった。】とある。無意味に無法を行なった訳でもなさそうなのである。
  • しかも、呉に背く事を決定した後は、十分な計画を練り、父・韓当の葬儀を行なうという名目で一族を集結させ、親族の女性は全て部下に妻として娶らせている。配下の裏切りに最大限の注意を払って、確実に魏への逃亡が可能な情勢を作り上げているのである。突発的な離反行動ではないのだ。
  • この韓綜の魏への投降は、魏と呉の両方の帝紀に記されており、いち国境守備隊の離反で済まされない重用な事件であった。その後、韓綜は魏で将軍に封じられ、度々、呉領内に攻め入り孫権を苦させた。孫呉が韓綜に一矢報いたのは、252年、孫権死後、孫亮の時代の東興の戦いまで待たなくては成らない。東興の戦いで、諸葛恪が魏軍の前軍督(先鋒)として出陣していた韓綜を斬り、韓綜を討ち取った事を孫権の廟に報告したのである。約20年もの間、韓綜は呉を苦しめた事になる。
  • このように韓綜は軍人としても父譲りの武勇を持っていたと思われる。また、突発的な離反行動を行ない失敗するような愚も冒していない。問題はその韓綜がなぜ呉を離反したのか?である。
  • 孫権伝では、この韓綜の離反の後、孫権は【部隊長の失策は一回で罪を問わず、三回まで許す。】という指令を出しており、もしこれが韓綜の離反を受けての物であるなら、なんらかの失策を韓綜が行い、その責任を問われるのを恐れての事と考えられるだろう。しかし、それだけとは思いにくい節もある。注では、孫権がこの指令を出したのは、韓綜とほぼ同時に魏に走った翟丹の事が原因であるように書かれているからだ。そうであるならば、韓綜の離反の原因は、別にあることになる。
  • 韓綜の離反は、韓当の葬儀にかこつけて行なわれている。ということは、韓綜は父の跡目を継いで間もなく離反を決意したということだ。確かに韓当は、その功績の割には呂蒙や陸遜の下に付けられていて、古参の宿将にしては官位が低い感は否めない。それを恨んでの事だろうか?もしくは、程普・黄蓋ら古参の宿将たちの子孫が、例外なく父ほど優遇されていないという事もあったのかもしれない。孫権としては、武官の家柄が二代目となり、豪族化する事を嫌った・・ということがあるのだろうか?

 韓扁(かんへん)

  • 陸遜が襄陽を攻撃した際、孫権への戦況報告の任を任されたが、その帰路に敵に遭遇し捕らえられた。

 顔連(がんれん)

  • 無錫の人。
  • 孫瑜によって、居巣県長(長江以北。濡須口の北)に任命され、その地域一帯を呉に帰順させるのに成功した。