か行「こ」

 伍延(ごえん)

  • 征呉戦が始まった時の江陵督。杜預が江陵に迫ると、偽装工作をして逆襲を画策したが、破れて斬られた。

 伍隆(ごりゅう)

  • 会稽の優れた人物として虞翻が挙げた人物。門下督盗賊とある。盗賊?一瞬盗賊かと思ったが、たぶんというか絶対違う(笑)。役職不明だが、おそらく門下督(将軍府下の部隊指揮官)の中で特に盗賊取り改めをやっていたという事だろう。盗賊司馬(盗賊を取り締まる司馬)って役職もあるくらいだから。
  • 自ら剣を振るって君主を救った人物として賞賛されている。で、おそらく時代区分で言うと、三国時代の人ではなく、もっと前の時代の人。

 呉安(ごあん)

  • 呉景の孫にあたる。二宮の変が起きた時、孫覇派に属し、孫覇が自害も申しつけられた時に、同時に誅殺された。呉安は外戚の三代目に当たるので、孫覇を擁立する事で、外戚として力を発揮しようという意図があったとも思える。

 呉桓(ごかん)

  • 黄巾賊の首領。会稽郡の役人をやっていた頃の留賛と戦い、殺された。文字通り読めば、会稽にも黄巾賊がいたという事になるが、留賛自身が当時はただの郡役人であり、軍を率いる立場にはない事から、小規模の黄巾を名乗る賊徒であったと思われる。にしても、当時、留賛は十代。大した豪傑である。

 呉祺(ごき)

  • 呉景の子。都亭侯に封じられた。張温や顧譚と仲が良かったと言うから、かなり礼節をわきまえた人物だったのだろう。孫権は呉祺を訴訟の取り裁きに当たらせたと言う。

 呉巨(ごきょ)

  • 赤壁のあった頃の蒼梧太守。
  • 長坂で魯粛の会見した劉備は当初、「交州刺史の呉巨とは昔なじみなので、彼に身を寄せるつもりだ。」と答えており、劉備と昔なじみとなれば、幽州出身の可能性もない事はないが、むしろ劉表麾下で面識があったと考えた方が道理。呉巨は劉表が交州支配を目論んで送り込んだ人物だったのだ。
  • 呉巨は蒼梧太守・史璜の後任として送られてきたが、劉表が死ぬと上官の交州刺史・頼恭を追い払う。おそらく自分が刺史になるつもりだったのだろう。だが、士燮が孫呉に歩み寄ると、自分が刺史となる事は諦め、交州刺史として歩隲を迎え入れる。しかし、呉巨は表面的には服従してはいても、反意が明かだった。そこで歩隲は会見を申し込み、懐柔を試みると見せかけて、その場で呉巨を斬って落とした。
  • 程秉の記述によると、呉巨は武勇一点張りの人物だそうで、確かにオツムの方はちと弱そうだ。

 呉遽(ごきょ)

  • 237年に鄱陽で反乱を起こした郡民。
  • 中郎将の周祗は、鄱陽で徴兵を行いたいと願い出た。下問を受けた陸遜は、「鄱陽の住民は動揺しやすく、それを安定させるのは困難であるから徴兵は行うべきではない。」と意見を具申したが、周祗は意見を変えず、徴兵を行った。すると案の定、鄱陽で反乱が起き、呉遽を首領とした反乱軍は、周祗を殺害、続けて豫章・盧陵の不服従民も動き出すに至った。陸遜は陳表と共に、これらの不服従民討伐を行い、投降者の中から八千人の兵を兵役とした。
  • ここで言う不服従民とは山越の事。初期の記述では山越と呼ばれることが多いが、この時代になると不服従民と言う表記が増えてくる。つまり、山越の実態もある程度、把握できるようになり住民として数えられつつあったと言えるかもしれない。だが、徴兵を行えるほど治安が安定した地域ではなく、鄱陽・豫章・盧陵と言った辺りはちょっとした事で反乱騒ぎが多発する地域だった。また、徴兵に反対した陸遜が、反乱が起きた後で兵を得たというのが逆説的で面白い。普通に徴兵する事は困難だが、反乱を発生させた後なら、投降者に兵役を課すのは可能という事になる。この辺りに孫呉が山越討伐にやっきになった理由の一端があると言えそうだ。

 呉五(ごご)

  • 賀斉伝に名の見える会稽の反乱勢力。六千戸を率いて、大潭という所に本営を置いた。山越という記述はなく、むしろ会稽の独立勢力と言った感じだ。祖郎や厳白虎と同じタイプと言った印象を受ける。当時、呉五のような勢力は会稽に多数存在しており、いかに広大な会稽郡を完全支配するのが大変であったかが分かる部分である。

 呉綱(ごこう)

  • 諸葛誕の長史をやっていた。諸葛誕が反乱を起こしたとき、諸葛誕の末子の諸葛靚と共に呉に救援を請う使者として派遣された。諸葛誕が長史や自分の子を使者としたのは、それだけ呉の救援を頼みとしていたからである。諸葛誕死後は、呉綱は呉で暮らした。
  • さて、この呉綱だが、実は漢の名将・呉芮の十六代目の子孫である。黄初の晩年(220年代後半)に、長沙王・呉芮の墓をあばいて、その瓦を使って孫堅の廟を建てるという、暴挙(汗)があった。こういう事は結構、平気でやっていたんだろうか?その時に呉芮の棺も発掘されたのだが、呉芮はまるで生きているようだったという。ミイラ化していたのだ。当時すでに呉芮が死んでから四百年が経っていたのだから、驚きである。その発掘に関わった者が、後に呉綱に会って「本当に君は呉芮によく似ているな。ちょっと背が低いだけだ。」と言った。それを聞いた呉綱はびっくりして、事の顛末を聞き、改葬がきちんと行われたのかどうか?を確認した。当然至極の反応である(汗)。

 呉粲(ごさん)

  • 正史に伝のある吾粲の事であろうと思われる疑惑の人。詳しくは吾粲伝で。(いつの事になるやら・・・)

 呉簒(ごさん)

  • 呉景の孫で呉祺の子。妻が滕胤の娘だったので、滕胤が誅殺されると共に殺された。彼が殺された事で、外戚・呉家は事実上、断絶する事となり、以後、呉家の人物が記述される事はない。
  • 呉夫人は、呉建国の母と言って良い人物であるが、外戚が力を持つ事は国家運営上、良い事ではない。分かってはいるのだが、世間の厳しさを感じる部分だ。

 呉術(ごじゅつ)

  • 呉末期に起きた郭馬の乱の首謀者・郭馬の配下。郭馬によって南海太守に任じられた。

 呉穣(ごじょう)

  • 255年に広陵太守に任じられた。この頃、対外強硬姿勢を貫く孫峻は広陵支配を目論み、広陵に城を築いた。そこで広陵太守として選ばれたのが将軍の呉穣だったのである。広陵を魏・呉どちらが統治していたか?は非常に微妙で、広陵のうち長江沿岸はおそらく呉が、内陸部は魏が支配していた。この広陵城は防御拠点として築かれた訳である。

 呉碩(ごせき)

  • 広陵の人で孫皎の部下。張梁と共に特に軍事を任され活躍した。226年に孫権が石陽を攻めたときは、孫皎と共に、高城を落とし三人の将軍を捕らえた。その功績により関内侯に任じられている。

 呉碭(ごとう)

  • 215年に起きた、呉・蜀の荊州争奪戦の時、安成県長だった人物。呂岱が長沙・零陵・桂陽を制圧すると、近隣の四県と共謀して陰山城に立て籠もって抵抗した。呂岱に敗れ、一度は呉に降ったが、再び関羽と通じて呉を離反。攸県でで反乱を起こす。魯粛が攸県に軍を動かすと、その囲みを突き破って逃亡した。

 呉奮(ごふん)

  • 呉景の子。父・呉景は丹楊太守だったが、203年に呉景が死ぬと、丹楊太守には孫家の直系である孫翊が任じられた。呉奮は、新亭侯に任じられている。この辺り、外戚に実権を握らせないように配置替えが行われているのが分かる。呉奮はむしろ軍属として使われ、孫権が黄祖討伐を行った時には(203年か207年かは不明)、呉郡都督として東方(呉郡を中心として丹楊・会稽などの諸郡の事)の治安維持に努めた。

 呉平(ごへい)

  • 家に生えてきた野菜が吉兆の兆しを持つ平虜草と判明した事から、平虜郎に任じられた人。もちろんただの平民。時代で言うと、まさに晋の征呉戦の最中であり、溺れる者は藁でも掴むというか、ヤケのヤンパチというか。しかし、ただそれだけの事で、平民の分際で正史に名が記載され、ン千年後の我々に名を知られているのだから、この人にとっては平虜草は確かに吉兆の兆しだった。

 呉免(ごめん)

  • 謝っている人。じゃなくて、会稽に存在していた賊の一人。他4人の首領と共に漢興に本営を置いていたが賀斉に敗れて降伏した。

 吾彦(ごげん)

  • 字は子則。呉郡呉県の人。吾彦も張悌同様、呉の滅亡の際に奮戦した数少ない武人の一人である。素手で猛獣を打ちのめすほどの腕力の持ち主だった。
  • 彼の最初の記述は、272年の西陵督・歩闡の反乱の時。将軍だった吾彦は陸抗の部下として、西陵討伐に参加している。この功績が認められたのかそれとも以前からだったのか、征呉戦が始まる前に、建平太守となっていた。建平郡は蜀から長江沿いに侵入する際の最初の砦となる非常に軍事上重要な地点である。
  • 王濬が蜀で船の建設をしていた頃、吾彦は上流から流れてきた膨大な木くずを発見。晋は呉の攻略に着手したと孫晧に進言、建平郡の兵員の増員を求めたが、孫晧に取り合ってもらえなかった。征呉戦が始まると、呉軍が総崩れとなる中、長江に鉄鎖を張り巡らせて最後まで抵抗。呉軍の意地を見せた。晋に降伏した後、金城太守・南中都督・交州刺史を歴任し、中央に召されて大長秋となり在官のまま死去した。晋書にも伝が建てられている人物である。
  • 後に、呉が滅びた理由を司馬炎に聞かれた際、薛瑩が「孫晧が小人を重用し刑罰を濫用したため、呉は滅びました。」と司馬炎に言ったのに対し、「孫晧は優れた人物で、その臣下も賢明でした。呉が滅びたのは天運によるものです。」と孫晧を弁護している。この辺りを見ると、建平軍の兵員の増員を孫晧に断られたという辺りもちょっと怪しい感じは受ける。実際の所は、とても建平郡の兵員の増員は不可能だったのかもしれない。
  • また、司馬炎に陸抗と陸喜のどちらが優れているかを聞いてみたことがあったが、吾彦は「徳や名声では陸抗は陸喜に及びませんが、功名を樹立し事を成し遂げる点では陸喜は陸抗に及びません。」と答えている。陸抗指揮下で勇戦した事のある吾彦らしい答弁だろう。

 胡衛(こえい)

  • 孫権の命で高句麗に派遣された使者。呉と高句麗の関係が始まったのは、233年。公孫度が呉の使節団の長弥・許安・賀達らを切り捨てた事に端を発する。使節団の一員であった秦旦らは、遼東を脱出。苦難の末に高句麗にたどり着く。そこで高句麗王・位宮と面談。友好関係を築くのに成功して呉に帰還した。公孫度事件で恥辱を味わされた孫権は、高句麗との関係を構築できた事を喜び、使節団を高句麗に派遣したが、その頃には位宮は、魏から呉の使者を始末するように指示を受けており、使節団の一員として参加していた胡衛は不運にも切り捨てられてしまうのである。

 胡玉(こぎょく)

  • 孫堅の実質的な初手柄となった海賊退治の時の海賊。孫呉はここから始まった。
  • 孫堅が17歳の時、父と共に銭唐に出かけたが、その途中、匏里で海賊と出くわす。この海賊の頭が胡玉である。海賊を恐れて船が進まないもんだから、孫堅は持ち前の機転と勇気でもって、海賊退治の妙案を思いつく。孫堅は前に進み出ると左右に手を振って合図をし、さも軍を率いているふりをする。これに驚いた海賊たちは、一斉に逃げ出した。孫堅はそれを追撃して、海賊の首を一つ持ってきたと言う。これが孫堅の波乱の人生の第一歩であった。

 胡伉(ここう)

  • 臼陽県の長をやっていた人。諸葛恪に斬られている。詳しくは諸葛恪伝で述べるが、諸葛恪による丹楊山越壊滅作戦の一環として行ってきた【投降者への尋問・拘束の禁止】に違反して、投降してきて周遺を拘束したため、諸葛恪に斬られた。この辺りを見ると、諸葛恪の戦略立案能力には非凡な物がやはりある。

 胡沖(こちゅう)

  • 呉の偏将軍・胡琮の子。公正にしておだかや、文才があった。277年から280年の天紀年間に中書令に任じられた。征呉戦が始まり、各地の呉軍が総崩れとなると、薛瑩と共に降伏を進言。それに従って孫晧は晋に降伏した。その後、晋で尚書令・呉郡太守となっている。
  • だが、彼の場合はむしろ正史の注として採用されている【呉歴】の著者としての方が有名だ。他にも【問答】という書なども著しており、文才は確かである。ただし、この呉歴、著者を見れば明らかなように、呉の出身者によって書かれた物であるから中立的な書かというと?マークが付く。

 顧栄(こえい)

  • 字は彦先。顧雍の孫、顧邵の子。黄門侍郎・太子輔義都尉を歴任。孫晧の元、多くの士官が譴責を受ける中、孫丞と共に孫晧の信任を受け、「今後、侍郎を任命するに当たっては、孫丞や顧栄のような者でなくてはならない。」とまで言わしめた。あの孫晧にそこまで言わせるというのはすごい事だ。
  • 呉の滅亡後は晋に仕え、陸機・陸雲と共に上洛し「三俊」と呼ばれ、尚書令・太子中舎人・廷尉正を歴任した。が、八王の乱やらの晋の政治的混乱を見て、顧栄は故郷の呉に帰還する。顧栄が呉に帰った頃に、旧・呉の豪族たちが多く参加した陳敏の乱が起きるが、顧栄は甘卓・周玘らと共に、陳敏を敗死させた。
  • 司馬睿が建業にやって来ると、賀循らと共に東晋王朝を支え、江南豪族と司馬睿の間を取り持ち、軍司馬兼散騎常侍となり、在官中に死去した。東晋王朝初期を支えた江南豪族の主要人物五人(薛兼、顧栄、紀瞻、閔鴻、賀循)を「五儁」と言う事もあり、顧栄は司馬睿に取って重要な人物の一人だった。 顧栄の行動を見ても、政治的判断力の正しさの光る人物だ。
  • この五儁、いずれも孫呉時代に名を起こした豪族であり、薛家・顧家・賀家などは、江南豪族の中でも特に勝ち組であったと言えるだろう。政治的判断ミスにより没落していく江南豪族も多い中、常に政治的判断を誤らず、子孫の教育をしっかり行ってきた成果と言えるのではないだろうか?
  • 【顧家家系図】
    • 顧奉 -□ -顧雍 -顧邵 -顧譚
                  -顧承
              -顧裕① -□ -顧禺
                   -顧栄 -顧毘
              -顧済
      顧徽(顧雍の母方の叔父) -顧裕②
      顧向(顧雍の一族) -顧悌-顧彦
                   -顧礼
                   -顧謙
                   -顧祕 -顧衆

 顧徽(こき)

  • 字は子歎。顧雍の母方の叔父にあたる。ン?という事は元々は顧姓ではなかったと思われる。顧家と縁組みが出来たのを機に顧姓を名乗ったという事か?呉景の事を孫景と呼ぶ場合もあり、さほど珍しい事でもないのかもしれない。顧徽は若い頃から、他郷に出て学問に励み、弁舌が得意だった。孫権は顧徽の評判を聞きつけ、主簿の位につける。時期的には、顧雍が採用されたのとほぼ同時期だろう。
  • 顧徽のエピソードの一つにこんなのがある。ある時、顧徽は一人の大男が罪を犯し、役人に縛られ市場で処刑されそうになっているのを見た。顧徽は処刑はしばらく待つように言い渡し、孫権に上奏し、「現在は北の賊(曹操の事)を討伐するため、一人でも多く人を養うべき時です。この男は盗んだ金も少数、体も立派で役に立つ故、是非許してやって下さい。」と言った。孫権はこの上奏を喜び、この男を許したと言う。これを見ても顧徽が道徳的価値観ガチガチの人間でない事が分かる。一方で、孫権就任時の呉がいかに人員不足であったか?を示す資料とも言えそうだ。その後、顧徽は東曹掾となる。
  • 曹操が呉に兵を向けようとしているという噂のあった頃(袁紹が敗れ、曹操は袁譚と戦っていた時期)には、輔義都尉の位を加算され、実情を確かめるための使者に選ばれた。曹操の元に出向いた顧徽は、孫呉がいかに強大であるかを述べた。曹操は「孫呉とうちは、婚姻関係にあるのだから、そんな事を言わなくてもいいのでは?」と言うと、「婚姻関係にあるからこそ、曹操殿は孫呉の事を知りたいに違いないと考えたので、申し上げました。」と答えた。この顧徽という人物、曹操は大嫌いなようだ。だからこそ、孫権も使者に選んだのだろう。呉に戻った顧徽は「敵同士では互いになかなか内情を知らせようとはしませんので、断言には至りませんが、曹操は袁譚と戦っている最中で、他の事を行う余裕はないようです。」と答えている。
  • この使者の役目を終えた後、顧徽は巴東太守に任じられた・・・とある。巴東と言うと益州。そんな所の太守をやっていたはずがないので、名誉的官職か?あるいは別名で巴東という郡があるのだろうか?聞いた事はない。この巴東太守の任命の後、顧徽は死去した。

 顧向(こきょう)

  • 顧悌の父。四つの県令を歴任した後、天寿をまっとうして死んだ。

 顧禺(こぐう)

  • 字を孟著。顧栄の兄の子に当たる。若くして人望があり、晋に仕えて散騎常侍に任じられたが、早死した。

 顧彦(こげん)

  • 顧悌の子。

 顧謙(こけん)

  • 顧悌の子。

 顧衆(こしゅう)

  • 顧悌の孫。顧秘の子。晋で尚書僕射になった。

 顧済(こさい)

  • 顧雍の末子。顧雍が死去した時、すでに長子の顧邵は死亡、次子の顧裕は不治の病を持っていたので、末子の顧済が父の後を継ぎ、騎都尉となり醴陵侯の爵位を継いだ。だが、顧済には世継ぎがなく、顧済が死ぬと顧家は一度は断絶してしまう。
  • 顧家が復活したのは、孫休が皇帝となり、顧家の断絶を憂い、不治の病を持ちつつも未だ健在であった次子の顧裕に爵位を継がせてからである。

 顧悌(こてい)

  • 字は子通。顧雍の一族にあたる。親族に対する親愛の情が強く、清廉である事で知られており、15歳で郡役人、やがて中央に召されて郎中、偏将軍となった。二宮の変の時は、朱拠と共に、強烈な諫言を繰り返したと言う。
  • さて、この顧悌、並はずれた礼教主義者である。顧悌先生の正しい礼儀作法講座の始まり、始まり(笑)。
    • 顧悌先生の正しい礼儀作法講座 -妻との正しい接し方-

      顧悌はいつも夜遅くに妻の部屋に入り、明け方にはもう出て行っていたため、妻は彼の顔を見ることがほとんどなかった。ある時、顧悌の病気が重くなったので、妻が見舞いに来た。すると顧悌、側の者の力を借りて起きあがって、頭巾を被り、寝間着の上に正装の衣装を羽織って妻の面会、早急に奥に戻るように言い渡した。
    • 顧悌先生の正しい礼儀作法講座 -父からの手紙の正しい読み方-

      顧悌は父・顧向からの手紙を受け取ると、以下のようにして読んだ。
      1.辺りを掃き清める。
      2.衣服を整える。
      3.文机(文を読むための机)と敷物を用意して読む準備を整える。
      4.父からの手紙をその上に開く。
      5.手紙に向かって礼拝し、ひざまづいて手紙を読む。
      6.一区切りごとに「はい。」とうなずく。
      7.読み終えたら、もう一度手紙に対して礼拝する。
      8.もし手紙の中に、父が病気になったと知らせがあった場合は、手紙の前にして涙を流し、嗚咽して言葉を詰まらせる。

      これが正しい、父からの手紙の読み方である。
    • 顧悌先生の正しい礼儀作法講座 -父が死んだ時の正しい接し方-

      顧悌は父・顧向が死ぬと(病死や戦死ではなく天寿をまっとうして死んだ。)、五日間、一滴の水も飲まなかった。孫権は彼が喪服を着替えようとしない事から、布の衣服に綿を詰めて、強く顧悌にこれに着替えるように言い渡したので、やっと顧悌は喪服を換えた。遺骸をいつまでも家に留める事は禁止されていたので、仕方なく葬儀を執り行ったが、父の遺骸に触れられないので、壁に棺の絵を描いてその下に霊座を設けて、それに向かって泣いた。ンでもって、父の喪が明けないうちに死んだ。
    最後にゃ、もう好きなようにしてくれと言いたくなるが、これで立派な人物だと評判を得たのだから、今とは価値観が全然違うのである。強烈ではあるが、決して奇人変人ではないのだ。

 顧秘(こひ)

  • 顧悌の子。晋に仕えて交州刺史となった。

 顧奉(こほう)

  • 顧雍の曾祖父。字を季鴻。後漢の潁川太守だった。顧雍は呉郡呉県の人だから、顧雍の父の代に呉郡にやってきたのだろうか?

 顧裕①(こゆう)

  • 顧雍の次子。顧穆とも言う。おそらく、同族に同名の顧裕がいたので、重なりを避けた名だろう。
  • 不治の病を持っていたとあり、そういう事から父・顧雍の死後は末子の顧済が継いだ。だが、顧済も死去すると、顧家は一度断絶、これを憂う孫休が、顧裕に醴陵侯の爵位を継がせた事で、顧家は断絶を免れた。
  • 宜都太守に任じられた。

 顧裕②(こゆう)

  • 字は季則。顧徽の子。若くして名を知られ、鎮東将軍にまで昇った。

 顧礼(これい)

  • 顧悌の子。

 公孫称(こうそんしょう)

  • 孫堅の部将。と言っても、長史をやっていた。董卓との激戦を繰り広げていた頃、長沙に食料の補給を求めるために派遣された。が、その送別会の最中に董卓軍の急襲を受ける。だが、孫堅の対応は冷静沈着。混乱もなく事を終えた。

 公孫滕(こうそんとう)

  • 呉では珍しい公孫姓の一人。太史丞だったそうだ。九宮一算の達人・趙達に従事し、懸命に勤めたが、ついにその秘伝を伝授される事はなかった。

 公孫陽(こうそんよう)

  • 213年、曹操が濡須に軍を進めた時、捕虜となった都督。呉書の方には記述はなく、曹操伝にのみ名が出てくる。

 弘璆(こうきゅう)

  • 弘咨の孫。265年に紀陟と共に、晋への和睦の使者となった五官中郎将。二人が洛陽についた時、晋の文帝(司馬昭)が死去したので、その年のうちに呉に帰還した。その一ヶ月後に魏から晋への禅譲が起こる。後に中書令・太子少府に昇進した。

 弘咨(こうし)

  • 曲阿の人。諸葛瑾を高く評価して孫権に推挙した。彼の実績はこれだけである。だが、問題点発生(^^ゞ。諸葛瑾伝によると、彼は【孫権の姉の婿】に当たる。親戚関係にある訳だ。なるほどなるほど・・・・って、ちょっと待て。孫権に姉なんかいたか??孫堅の子は5男1女で、娘は孫尚香しか確認されていない。孫尚香は劉備伝に孫権の妹である事が明記されている。ってアレ?孫尚香も呉夫人の子とは限らない訳か(汗)。うーむ・・・。
  • つまり、史書に明記されてない孫権の姉がいた事になる。これはあるいは、孫堅の諸子・孫朗に姉がいたという事かもしれない。で、その孫権の姉が弘家に嫁いだとなれば、弘家は丹楊の豪族として有力者だったと考えるのが筋だ。

 洪進(こうしん)

  • 一万戸を率いたという会稽郡東南の豪族。漢興に本営をおいたが、賀斉に敗れた。


 洪明(こうめい)

  • 一万戸を率いたという会稽郡東南の豪族。漢興に本営をおいたが、賀斉に敗れた。洪進とは血縁関係がありそう。

 皇象(こうしょう)

  • 字を休明。広陵郡江都の人。幼少の頃から書に巧みで、張超と陳梁甫の二人の書家の長所をうまく融合させ、書法の奥義を究めた。後に会稽郡山陰に移り住んだ。その名声を慕って、張温も学を授かろうとしたほど。呉の八絶の一人でもある。
  • 三国時代の書家というと、鍾繇が第一人者と認知されがちだが、この皇象も書史の中で、忘れては成らない重要人物の一人らしい。皇象は章草体の名手で、その書は習字のテキストとして、長く重用されている。

 高寿(こうじゅ)

  • 225年、曹丕が広陵まで出陣し、呉を攻めようとした時、曹丕本営を急襲した孫韶の部下。500の決死隊を率いて、曹丕を待ち伏せし夜陰に紛れて急襲した所、曹丕は取り乱して逃亡。高寿は皇帝用の車と馬車の傘を手に入れて帰還した。これってすごい戦功だと思うのだが、高寿の記述はこれだけ。

 高尚(こうしょう)

  • 撫夷将軍。263年、蜀が滅びると、武陵の五渓蛮の動きが騒がしくなる。鍾離牧はわずかな手勢で異民族討伐をしようとして時、撫夷将軍の高尚は、「昔、潘濬が五渓蛮を討伐した時は五万の兵でそれに当たり、しかも蜀との同盟があった。今は蜀は滅び、手勢も三千しかなく、勝算があるとは思えない。」として反対した。だが、鍾離牧は「非常時に昔の例などに習っている場合ではない。」として、二千里を急行。反乱する異民族を鎮圧した。

 高承(こうしょう)

  • 孫策の代の五官掾。曹操との同盟関係が成立した時、使者として上奏文を携えて許都に出向き、呉の産物を献上した。

 高岱(こうたい)

  • 字は孔文。呉郡の人。孫策の死にまつわる部分で連続して名が見られる。生まれつき聡明で物事に精通し、金銭を惜しまず信義を結んだので、名士として評判が高かった。呉郡太守の盛憲は、彼を上計(会計報告のために都に上る役)に宛て、孝廉に推挙している。
  • 後に許貢が呉郡を乗っ取ると、高岱は盛憲を許昭の家に逃れさせ、自らは陶謙に救援を求めた。許貢は高岱の母を捕らえたが、高岱は危険を顧みずに許貢と面談。滞りない答弁で母を解放させるのに成功している。
  • さて、この高岱、199年頃には、会稽・余姚で隠居生活を送っていた。孫策は彼を上客として招こうを考え、使者をやって迎えに行かせた。高岱の方も孫策を嫌った様子もなく、このまま事態は過ぎるかと思われたが、ここで策略を演じた者がいたらしい。その者は孫策には「高岱は孫策様を、武勇一点張りの無学の徒と軽んじているので、議論をしようとしても分からないと答えるでしょう。(相手にしないでしょう。という意味。)」と言い、一方で高岱には「孫策は相手が自分より優れているのを好みません。もし議論をされた時は敢えて分からないと答えるのが良いでしょう。」と言う。つまり孫策と高岱を仲違いさせようという訳である。果たして、孫策と高岱は会談を行うが、高岱は言われた通りに、時々「分からない」と言う。孫策は自分を無学の徒と馬鹿にしていると腹を立て、高岱を獄につなぐ。高岱を慕う者たちが一斉に釈放を求めに来たが、孫策がその様子を楼閣から眺めると、人だかりが数理に及んでおり、孫策は返って高岱が人々から慕われている様子を快く思わず、高岱を殺害してしまった・・・・と、言うのが【呉録】の注である。
  • さて、この呉録の注を見ると、孫策が于吉を殺した事情とそっくりである事に気が付く。つまり二人とも、孫策に捕らえられ、その助命嘆願をする人々が多い事に孫策が腹を立てて殺したという点である。この二説はおそらく、どちらかが一方を元に作られた物ではないか?と思われるが、この呉録の説は、策略を演じる者の名が不明で、しかも孫策・高岱両者の近くにいる者という事で、ちょっと都合が良すぎる。記述も大げさな所があり、信憑性は?マークだ。だが、はっきりと分かる事が一つ。この注の部分、孫策の死にまつわる部分の注でありながら、孫策の死とは直接関係がない、という事だ。つまり、高岱の伝をここで挟みたかったから裴松之が注を挿入したかったのだ・・と思われる。だが、この高岱の記述のすぐ後ろに、先ほど紹介した孫策が于吉を殺す経緯が書かれた【江表伝】の記述があり、もしかしたらこの二つの説の類似性を際だたせる意味があるのかもしれない。

 高通(こうつう)

  • 孫晧の代の宦官。陸凱が孫晧に宛てた(実際に上奏したかどうか?は不明)上奏文の中で、「小人に過ぎないのに過分な権限を与えられている」として非難されてる。

 黄淵(こうえん)

  • 222年の魏の三方面侵攻作戦の時、暴風により多くの船が転覆した。その時、無事だった大船には溺れた者たちが取りすがったのだが、多くの船は自分の船が沈むのを恐れて、船に登らせようとしなかった。だが、吾粲と黄淵は、水夫に命じて溺れている者たちを助けさせた。


 黄蓋②(こうがい)

  • 黄蓋と同姓同名の日南太守。南海出身。日南太守として着任早々、供物が不十分だとして主簿を打ち殺し、その事が原因で郡を追われた。

 黄彊(こうきょう)

  • 張弥・許晏らと共に公孫淵への使いとなった官士の一人。逆に公孫淵に抑留されたが、なんとか高句麗に脱出。高句麗王・位宮と交友を結ぶのに成功し、呉に帰還した。

 黄呉(こうご)

  • 交州の少数異民族の頭目。248年、交趾・九真の異民族が反乱した事から交州が混乱。陸胤が交州刺史として事態の安静化に乗り出す。陸胤の採った慰撫政策に応じて、配下三千と共に投降した。

 黄耇(こうこう)

  • 征呉戦のまっただ中、家に生えてきた鬼目菜が霊草と判明した事から、侍芝郎に任じられたラッキーな人。要するに、呉軍総崩れの中、やけくそで任命されたか、神頼みで藁をもつかむ気持ちでやったか?である。

 黄他(こうた)

  • 会稽郡章安の人。剣に身をさらして主君を救った人物として朱育が挙げた人物。時代的には三国時代以前の人。

 黄柄(こうへい)

  • 黄蓋の子。孫権が帝位につくと、黄蓋の生前の功績を評して、子の黄柄を関内侯(奉国を持たない爵位)とした。特に父の後を継いで、軍属となった様子もない。この点は程普も同様であり、孫権が呉王となる前に死去した軍属の場合、その兵力はそのまま別人に受け継がれる事が多い。つまる所、孫権が王になる前は、その部下も高位になく、軍や官位を引き継ぐには値しないのである。
  • 孫堅以来の古参将の程普・黄蓋・韓当のうち、韓当だけが孫権が呉王となるまで生存し、子の韓綜は父の爵位と兵を受け継いだ。この辺りに韓綜の魏への投降の理由があるのやもしれない。

 黄乱(こうらん)

  • 鍾離牧によって討伐された山越首領の一人。鄱陽・新都・建安の山越とあり、例によって反乱多発地域の首領だ。

 黄龍羅(こうりゅうら)

  • 会稽郡・山陰を根城とした乱賊の頭目。徒党千人とあり、孫策は自らその討伐に乗り出し、董襲が黄龍羅を斬った。

 項峻(こうしゅん)

  • 項竣とも書く。孫権の代の末年、太史令となり、丁孚と共に呉の歴史の編纂の任に当たった。孫亮の時代になって、韋昭らが項竣らの歴史書を正式に書として作り上げたのである。

 谷利(こくり)

  • 彼については、【三国迷ぐっこのHP】を見てもらえれば、全てがわかるんじゃないかと(他力本願)。つーかもう、これ以上書く事がない。個人的には、信長とヤスケの関係みたいで、こういう人は好きです。そう言えば、私、「谷利促進委員会」の会計係やってました(爆)
  • 彼に関しては、【逸聞三国志】で紹介された事のある、呉の九真太守・谷朗との繋がりも面白い。正史には出てこないのだが、呉末期の九真太守である。で、何が注目されているか?と言うと、「谷朗碑」という碑石があって、これが楷書体で書かれた最初の文字ではないか?と注目されているのである。隷書体のようでもあり、楷書体の特徴もある。ど田舎だから、文字が崩れてるんだ等・・と議論の元になったらしい。
  • で、この谷という姓。三国時代・呉では谷利しか該当者がいない。ならば、谷利の子孫ではないか?という所から、色々と話が発展した。三国志ファンの創造力の素晴らしさ・逞しさを感じる所である。左平(仮名)様作の【谷利伝】は是非一度ご覧あれ。

 康泰(こうたい)

  • 正史には出てこないのだが、東南アジア史で注目されているらしいので、追加。
  • 扶南国というのは、マレー半島の中小の諸国十余国を制圧し、中継貿易で栄えた国。資料がないのでインターネットでの情報しかないのだが、この扶南国に呉から朱応・康泰の使節団が訪れている。この使節団の残した記録というのが、東南アジア史上の歴史資料として貴重な物だそうだ。
  • さて、うちで考察するとしたら、この使節団が送られた時期だろう。まず、呂岱伝。呂岱は士燮死後、交州を制圧するのだが、この時、【従事の役人を南方に派遣した所、扶南・林邑・堂明らの王たちが貢ぎ物を送って来た】とある。時期で言うと、226年から数年の間の事だ。それ以外では使節団派遣・朝貢の記録はなく、おそらくこの時期で間違えない。
  • 孫権の外国への使節派遣、及び遠征計画は、例の日本探索命令等を見ても、孫権の皇帝就任前後に集中している。この扶南への使節派遣もその一環である。使節派遣の目的は、一つは貿易だろうが、それよりも【国家としての威信の上昇】に主目的があるのではないだろうか?魏書でも倭国(日本)からの朝貢は国家の威信を上げる事件として扱われている。また、呉の朝貢の記述が孫権伝ではなく、呂岱伝に出てくるというのも、面白い。本来、朝貢は国家的に大きな事件であり、本紀に書かれるべきだが、正当王朝が魏であるので、呉の朝貢記録は意図的に本紀から除外された可能性が高い。それでも完全に無視するのでなく、呂岱伝にきちんと記録を残す辺りが、陳寿が歴史家としての信頼を勝ち得る部分である。