【 節度ある女性 】
  • 孫休が皇帝となった事を受け、朱夫人も262年、皇后となった。孫休は一時は孫綝のいいなりとなっていた時期もあったが、次第に実力を発揮、孫綝一派を一網打尽とし、文治政治を展開する。
  • 皇后となった朱夫人の言動は記録が皆無である。と言っても、この時代、女性の事については基本的に書かれないのが普通なので別段珍しい事でもない。だが、孫家の女性たちが総じて活動的な傾向がある事を考えれば、朱夫人の皇后としての行動記録がない理由の一つとして、皇后だからと言って政治に口を挟む事をしなかったという点がある・・と考えて良いだろう。政治に口を挟まなければ、普通にするべき事をしているだけなので、何も記録に載るような事はない事になる。そもそも、孫休は学に通じているので、その妻である朱夫人も礼節をわきまえた人であったと言えるだろう。
  • 朱夫人が控えめで礼節をわきまえた人物であった事は、孫休死後のエピソードからも伺える。孫休は最後は言葉がしゃべれなくなって死亡したのであるが、その前に息子の孫ワンを指さし、後事を託した。だが、当時は蜀が滅び国難を迎えている状態であり、強い主導性を発揮できる人物を皇帝として迎えたいという気風が存在していた。そこで、当時、政権の中枢にいた濮陽興・張布は、孫晧を皇帝にしたいと朱夫人に申し出る。
  • このような場合、まず未亡人が自分の息子を皇帝としない事に賛同するケースはほとんどない。呉の例だけを見ても、自分の子を皇帝としたい孫権夫人たちの確執が二宮の変を引き起こしている。他の例を探しても枚挙に暇がないだろう。だが、朱夫人は、「私は未亡人にすぎず、国家の事はわかりかねます。呉を損なう事なく存続できるのであればそれで良いでしょう。」と述べ、孫ワンを皇帝とする事に固執しない。女性の身で政治の表舞台に出る事を良しとしない朱夫人の姿勢が読み取れるだろう。孫休には四人の男子と公主(娘)がおり、その全てが朱夫人の子であったとは言い切れないが、少なくとも、孫休の妻として名前が確認できるのは朱夫人だけであり、夫婦仲は良好だっただろうと想像できる。こういう人物だったからこそ、孫休に愛され大事にされたのだろう。また、このような人物だったからこそ、孫休死後、群臣たちに推され、朱夫人は皇太后となった。
  • だが、結果として朱夫人が息子を皇帝とする事に固執しなかった事が悲劇を生む事となる。孫休の後を継いで皇帝となった孫晧は、異常なまでに肉親に愛情を注ぐ人物であり、皇帝即位直後から、皇太后となった朱夫人が疎ましかった。