【 なぜ朱夫人はすぐに皇后になれなかったのか? 】
- 前回アップした朱夫人伝4「節度ある女性」は書いてからすでに半年以上たったもので、とりあえずアップしたものの、もう少し孫休時代の内容を付け加えたいという気がしてきたので、少し時代を遡ります(汗)。もう時系列の整理すらできとらん(泣)
- さて、孫休が即位したのは258年。気の早い皇帝なら即位したら即、皇后と皇太子を立てるケースも多い。実際、孫晧は即位したその年に皇后を立て、さらに父の孫和を皇帝に、母の可姫を太后に立てている。では孫休はどうか?というと朱夫人が皇后に立てられたのは262年の事であり、孫休が即位してから結構時間が空いてる。ではなぜすぐに皇后に立てなかったのか?
- そのヒントになりそうな部分が孫休伝の注の江表伝に載っている。孫休が即位すると群臣は皇后と太子を立てるように進言した。後継ぎを決めないまま孫休が急死するような事になれば混乱は必至なので当たり前の進言である。しかし孫休は「自分は徳に乏しく、政治に携わった経験も浅いため、未だ恩沢を敷き広げる事が十分ではない。このような状況では、皇后や太子を立てる事など急務ではないのだ。」としてこの建議を退けた・・とある。まあ要するに謙遜であると取れる。実際、孫休は皇帝になる際にも様々な演出を行い、迂遠なほどに時間をかけて皇帝になった人物であり、私的な部分を後回しにする事で徳を示したかった・・という部分はあるだろう。
- だが、実際の所、孫休は、孫権死後、政権が不安定となり孫綝の専横を許す形となっている状況での即位であり、まずは国の立て直しが急務であったという点も多いにあるように思う。よってまずは孫綝の排斥に始まり、次に人材登用・農政・政治腐敗の立て直しに、政治基盤の強化・・・とある程度まともな政治感覚を持った人物である孫休にはやるべき事が山ほどあったのだ。つまり、孫休が朱夫人を皇后に立てた262年は孫休にとって「これでまあやるべき事はやったかな?」という節目の年なのである。節目の年だからこそ、皇后を立てて皇太子を立て、あとは学問研究に没頭してしまったのだ。困った事に。
- (注)呉滅亡の原因を孫皓の暴虐に求めたり、あるいは二宮の変に求めたりすることがよくあるが、呉において三国時代崩壊の原因となったのは、「262年以降の孫休の受け身の政治姿勢」にある。まず262年に察戦の役人を交州に送ったことが交州離反の要因の一つになっている。そして翌年には魏において蜀討伐の詔が下されている。これに対する呉側の対応が後手に過ぎるのである。この262年~263年において、孫休が魏の動向を注視し、先手先手に対応を取っていれば、もう少し楽な展開も十分に考えられた。孫晧が当主となった段階では、すでに時を逸しており、孫皓に全ての責任を負わせるのは酷である。あまり孫休に呉滅亡の責任を問う声は聞かれないが、個人的には262年~263年の対外戦略の稚拙さにその原因を求めて良いように思う。
- 結局の所、262年以降の孫休の受け身な政治体制が、孫休死後の朱夫人と子どもたちの悲劇の元になっていると言えるだろう。孫休が蜀の滅亡に際し、後手後手の対応しか取れなかった事が、そもそもの孫策の再来待望論の始まりであり、孫晧即位の遠因である。▲▼