【 大逆転 】
  • 257年になると、孫亮と孫綝の間で主導権争いが起こるようになる。基本的に孫亮と孫綝の主導権争いは、当時ただの地方王に過ぎなかった孫休・朱夫人には関係のない事であるはずだったのだが、孫魯班(全公主)と孫魯育(朱公主・朱夫人の母)の確執がここでも後を引いた。まずは当時の政治状況を整理しよう。
  • 孫綝は孫家宗室として、専横を振るっていた。一方、孫亮の基盤は外戚である全家という事になる。が、当時、諸葛誕救出作戦失敗により孫綝の求心力が低下する一方で、孫亮の外戚である全家も一族の大部分が魏に投降するという打撃を受けており、双方共倒れと言った状況だった。そんな中、孫亮が朱夫人の兄弟にあたる朱熊と朱損を誅殺するという事件が起きる。朱熊と朱損はそれぞれ虎林・外部(建業周辺の事)の都督であり、宮廷周辺警護の重要な役目を得ていた。この二人を孫亮が誅するとなると、それはつまり、朱熊・朱損が孫綝派であったという事になる。それは何か?というと、朱損の妻が孫峻の妹であったという点、つまり血縁関係である。
  • 朱夫人伝では、孫亮は、孫魯育(朱公主)は孫魯班(全公主)のために殺害された事を知り、孫魯育(朱公主)の死因を確認すべく孫魯班(全公主)に事の顛末を訊ね、孫魯班(全公主)はその責任を朱熊と朱損になすりつけたので、孫亮は朱熊と朱損を誅殺した、と書かれている。だが、ちょっと見ればこの記述の不自然さは見て取れるだろう。孫亮は孫魯班(全公主)を疑って尋問したのであるのに、その結果、孫魯育(朱公主)の子に当たる朱熊と朱損を殺害に至るというのが意味不明である。孫亮がよほどの大馬鹿者だったならあり得なくもないが、聡明さを謳われる孫亮がそこまでの愚鈍であったとは思い難い。そういう事を考えるとつまりは、全家と朱家の勢力争いの一環である。そしてそれに、孫峻・孫綝と朱家の血縁関係が加わる。おそらく、孫儀の乱において、朱夫人が関与を疑われながらも不問に伏された理由もその辺にある。構造を簡略化すると、孫亮派=全家・孫魯班であり、孫綝派=朱家・孫魯育という事になる。いささか簡略化しすぎではあるが。
  • 結局、この勢力争いは孫綝の勝利に終わり、孫亮は廃され王に格下げとなる。同時に全家もほぼ壊滅する。一方、孫亮に替わり皇帝となったのは孫休である。この時点で朱家は皇帝の直系外戚となり、朱熊・朱損の名誉も回復される。そして、262年、朱夫人は皇后に立てられる。孫休・朱夫人夫婦の苦難の歴史の大逆転劇と言えるだろう。