【 近親婚はタブー? 】
  • 孫休の妻・朱夫人は、朱拠の娘に当たる。
  • 朱拠は、呉郡出身。呉郡の朱氏というと、呉の四姓の朱氏である。彼の伝には華々しい戦績はないのだが、特筆すべきは、孫権の娘である朱公主を娶ったという点と、二宮の変において太子派(孫和派)の主要人物として処断された人物であるという点である。
  • そして、その朱拠と朱公主の間に生まれた娘が朱夫人である。・・・と、ここまで読めばインブリードが行われている事が分かるだろうw。朱夫人の四分の一の血は孫権の血なのであるから、朱夫人が孫家直系の孫休の結婚すれば、孫休と朱夫人の間に生まれる子は38パーセント孫権の血を受け継ぐ事になってしまう。濃すぎるw。その割には孫休の息子たちは孫権とは似てもつかず惰弱な印象を受けるが、これは一種の近親交配による弊害なのかもしれない。現在では近親交配は遺伝子的に悪影響を与える事が知られており、競馬の世界を除いて近親交配は忌むべき行為として知られている。では、当時の価値観はどうだったのだろう?
  • 呉書の注を読むと、裴松之は
    • 孫休はその姪を妻としたのであって、漢の恵帝の場合と同じである。荀悦が漢の恵帝を非難して妥当な意見を述べてる(荀悦はその著書である漢紀で恵帝の行為を人道に劣る行為と批判した。)ので、ぐだぐたと同じ事をここで書く事はしない。
    としている。つまり、当時から近親交配は忌むべき行為だったのだ。ところがである。実を言うと、孫休が近親交配をやったのはこれだけではない。なんと朱拠の孫にあたる朱宣に自分の娘を嫁にやっているのである。えーっとだな(汗。今度は朱拠を基準に考えよう。孫だから血は四分の一引き継いでいる。そこに同じく朱拠の血を四分の一引き継ぐ自分の娘をやったのだから、25パーセント朱拠だw。どう考えても孫休に近親交配への罪悪感はない。じゃ、孫休は当時の常識すら分からない非常識人だったのかというとそうとも思えない。孫休は諸子百家を全て読み尽くそうとしたくらいの学問大好き人間である。孫休以外でも、魏の曹髦と曹奐は、共に卞氏の娘を皇后にしている。これも近親交配であり、本来的には忌むべき行為と言えるはずだ。
  • つまり、近親婚については、叔父と姪程度の近さなら容認されていた可能性もあるのではないか?とも思える。特に三国の皇帝の中に近親婚の事例が複数見られる所を考えれば、血縁関係の構築という利と比較して、それが優先されるような場合も多くあったのではないだろうか?日本においても古代・天皇家は近親交配を多く行っている。近親婚がタブーとなっていったのは、比較的中世になってからという事例も多く、三国時代のような古代社会の場合、時と場合によっては、近親婚も容認された事例もある訳である。