【 翻弄される夫婦 】
  • 孫権は赤鳥の末年に朱夫人を孫休の妻とした。赤鳥年間は238年~248年であるから、朱夫人が孫休の妻となったのは240年代後半の事である。
  • ここで問題となるのは、朱夫人が孫休の妻となったのは朱拠誅殺の前の事か後の事か?である。朱拠が驃騎将軍に昇進したのは246年の事。この時点で朱拠は二宮の変に巻き込まれていない。巻き込まれているのならこの昇進はあり得ない。一方、朱拠は孫和の弁護をしたために自殺を命じられたのであるから、朱拠誅殺は250年の孫和の太子降格前の事となる。つまり朱拠が自殺を命じられたのは247年~250年の間の事であり、張休の誅殺・陸遜の憤死が起きた245年の頃とは微妙に時期が異なる。むしろ魯王派(孫覇派)が軒並み昇進した246年の人事刷新(歩隲が丞相、全琮が右大司馬となった人事刷新)で驃騎将軍となっている事を考えれば、朱拠は諸葛恪同様、少なくとも中立であったはずだ。彼が孫和弁護側に回ったのは、孫和の太子降格が取りざたされるようになってからと見た方が良い。という事は、朱拠の自殺命令は250年に極めて近い時期に行われており、朱夫人が孫休の妻となったのは、おそらく246年頃、つまり朱拠生前の事だ。逆に言えば、朱拠が中立から孫和弁護に回ったのにはなんらかの背景があるはずで、なんとなく孫魯育(朱夫人)と孫魯班(全夫人)の確執がそこにあるような気がしないでもない。
  • 朱家と関わりの深い孫休-朱夫人の二人は、朱拠の誅殺後は苦難の生活を続ける事となる。252年に孫休が琅邪王として虎林に住まいするようになると、朱夫人も孫休に従って虎林に移住する。同年、孫権が死去すると諸葛恪が政権の中枢に就くが、諸葛恪は軍事的要所である虎林に孫休がいる事を好まず、孫休と朱夫人は丹陽に移住となる。孫休伝注の襄陽記によると、当時孫休は丹陽の郡役所にいたらしい。次いで諸葛恪が孫峻によって誅殺されると、丹陽太守として諸葛恪と関わりの深い李衡が自ら望んで赴任してきた。諸葛恪誅殺後の事なると、この李衡の丹陽太守赴任は保身的な意味合いが強いように感じる。中央府にいては生命の危険があるので、地方に出た訳だ。この李衡が孫休を何かと迫害する。李衡としては、孫峻に反意がない事を示すためにも、王族である孫休と結託していないという所を見せる必要があったのかもしれない。だが、李衡の意図がなんであれ、孫休にしてみれば良い迷惑であり、どうにか丹陽から別の所に移住させてくれと願い出る。結果、孫休は会稽郡に移住となり、当然、朱夫人も会稽に移住した。
  • 孫休と朱夫人が会稽にいた頃、政権の中枢にいたのは孫峻だった。クーデターで権力を握った訳であるから、政権内部に混乱が起きるのは当然だろう。短期間に孫峻暗殺未遂事件が連続して起きる事となる。大きくは254年の孫英による孫峻暗殺未遂事件と255年の孫儀・張怡・林恂らによる孫峻暗殺未遂事件の二つがある。双方とも二宮の変の影響があるのだが、朱夫人と大きく関わるのは、孫儀の乱の方だ。孫儀は蜀の使者の会見の席上で孫峻を殺害しようという凄まじい計画を立てていたのだが、これが事前に漏れた。この事件に連座して数十人の者が殺害されたのであるが、その中に朱夫人の母である孫魯育(朱公主)も入っていた。元々、孫魯育(朱公主)と孫魯班(全公主)は二宮の変において意見が一致せず、その関係に亀裂が生じていた。そこで孫魯班(全公主)は孫魯育(朱公主)を讒言した・・・と朱夫人伝にはある。姉妹ではあるが、二人の公主は全家・朱家それぞれの利害を代表して動いており、反目は必然であったのかもしれない。
  • いずれにしても、この事件によって、朱公主の娘である朱夫人、さらには孫休にも災いが及ぶ可能性があった。そこで孫休は仕方なく、朱夫人を建業に戻し、孫峻の元に出頭させた。もし我関せずで会稽に居座ったなら、間違えなく共犯の可能性を疑われたであろう。朱夫人伝には、この時の様子を【二人は手を取り合い涙を流して別れた】と書いており、二人の仲むつまじさが伝わってくる。一方で、この時は死を覚悟した建業出向であった事も分かる。だが、結果として、朱夫人が建業に出頭した事が功を奏し、おとがめなしで朱夫人は会稽に戻る事ができた。
  • これらを見ると、この頃の孫休-朱夫人は、政変により翻弄される弱い立場でしかなかった事が分かる。だが、時代の波にもまれる事によって、孫休の注意深さ、思慮深さは形成されていったと考える事もできる。孫策・孫権もそうだが、時代の流れによって各地を転々とした人間は最終的には何かをそこで得るものなのかもしれない。