【 迫害の中での死去 】
- さて、孫休の後を継いで皇帝となった孫晧であるが、彼は孫休と違って皇后問題への着手は素早かった。というより、孫晧が皇帝となってまずやりたかった事は、自らの正当性の顕示であり、そのためには孫休の血筋は根絶やしにされるしか道は残ってなかったと言って良いだろう。
- 孫晧が即位した264年9月に早速、朱夫人は位を太后から落とされ、景皇后となる。孫休の諡が景皇帝であるから、命名としては至極当然なのであるが、先代の皇后が太后で、今の皇帝の妻が皇后であるのに、それが皇后に落とされるとなると訳がワカラン事になる。するってーと朱夫人は孫晧の妻だってかw??ンなわきゃーない。つまり孫晧の頭の中では、先代は孫和であり、その妻であった母の可姫が太后でなくてはおかしい。であるから朱夫人の存在はそもそもあってはならない物であり、あってはならない物であるからこうした不思議な事が起きる。
- もうこうなると、孫休色の排斥は始めから予定されていたようなモンで、孫晧の事をよく調べもせず、皇帝に推してしまった濮陽興と張布はお馬鹿としか言いようがない。よくよく考えれば次期皇帝が幼帝であるなら、後見人として専横を振るうには絶好の機会であったろうに。こういう所を考えると濮陽興と張布ってのは、史書に書かれるような悪人ではなく、生真面目な所と鈍感な所を持っていて、なんとなーく呉内部に流れる攻撃型君主待望論に流されてしまっただけなのではないか?という気がしないでもない。
- しかし、濮陽興と張布の場合はある程度自業自得である。救われないのは朱夫人と孫休の息子たちだ。女が政治に口を出すのを良しとせず、自らの子を皇帝とする事に固執しなかったが故に、自らの正当性の顕示に固執する孫晧によってその血筋は根絶を余儀なくされる。翌年の265年、朱夫人は迫害の中、逝去する。孫晧伝には堂々と「孫晧は朱夫人を追いつめて殺した。」とあり、朱夫人が正殿で死んだのではない事、葬儀も宮殿の小さな建物で行われた事が書かれており、逝去とは言っても他殺であるのは明白であると言わんばかりだ。孫休の四人の息子たちも、間を置かず呉郡の小城に強制移住させられ、年長の二人は殺された。残り二人の記述はないが、まあロクな目には遭っていまい。唯一の救いは、朱夫人は死後、定陵にある孫休の墓に合葬されたという事だろう。時代は朱夫人のような自己顕示の薄いタイプの人間が真っ当に生きられるほど甘い時代ではなくなっていたという事かもしれない。▲ -朱夫人伝 了-
- (注)こう書くと孫皓は非道な人間だという結論になるのだが、当主として前任者の子孫をつぶしておくのは当然と言って良い。なにせ孫休自身も前任の孫亮を殺している。朱夫人と孫休の子四人はかわいそうだが、これは孫休も自業自得である。むしろ年長の二人は殺害されたとして、残り二名は記述がないということは、未成年は殺さなかったとも考えられ、むしろ孫皓の甘さ(優しさ?)も見て取れる。孫皓の皇帝就任の際のライバルであったであろうと考えられる孫基も強制移住させれただけで殺害はされていない。