【 呉国太って誰よ? 】
  • なんの事だか分らない人もいるでしょうから、まずは予備知識から^^;。
  • 呉国太とは、三国志演義に出てくる孫堅第二夫人の事。ただし孫ぽこは演義は吉川三国志を読んだキリなので、本場の京劇でどう演じられるのかはよく分らない。大体の概略を言うと、呉国太は呉夫人の妹。孫堅が呉夫人を娶った後にどうせなら両方とも面倒見てよ(おーい^^;)という訳で姉妹揃って孫堅の嫁となった。んでもって呉夫人の死後は呉国太が実質的な孫権の母親代わりとなっている。ついでに孫夫人(孫権の妹で劉備の妻となった。)は呉夫人の子ではなく、呉国太の子になっている。
  • 呉国太は呉夫人同様に呉の国政に大きな役割を果たしており、特に孫夫人が劉備の妻となるクダリでは、自ら劉備の品定めを買って出て劉備をことのほか気に入ってしまい、周瑜の打倒劉備の策略を水泡に帰させた張本人・・・である^^;。
  • まーず^^;。この呉国太は実在の人物なのか??
    孫ぽこも結構最近まで実在するンかいな?と思っていました。というのも、結構多くのページで呉国太は孫堅の第二夫人だと明言されていたり、もっと言うと呉夫人と呉国太が同一人物であるように書かれていたり・・・って事がありまして。
    それに姉妹揃って孫堅の妻となったという部分が妙にリアリティーがあって、そういう記述が正史のどこかにあるンかいな?と思っていた訳です。で、よーく正史を再読しましたが、【そういう記述はない。】ないです^^;。コレどっから来た話なんですかね?出来すぎてます。もしかしたら正史にはないが、他の文献に見られるのかもしれません。それでもそのソースが分らないので、どうしようもありません^^;。取りあえず、正史には出てこない。
  • んでもって、この呉国太は、202年に死亡した呉夫人にとっては不名誉な存在でしょう。だって彼女ってば、国政に参与するのは良しとして、劉備を葬るチャンスをミスミス逃させるわ、荊州を取るチャンスをぶっつぶすわ・・・ですから^^;。同じく、国政に参与したと言っても、孫策・孫権に足りない部分をフォローした呉夫人とはベクトルが全然違います。呉国太は蜀にとって都合の良い人物。呉夫人は呉にとって有益な人物です。
  • では、呉国太はどうして演義に必要だったのか?まあ、どこにソースがあるのか?というのは情報不足ですから取りあえずおいといて、呉夫人の子であるはずの孫夫人(ややこしいので以後は、孫尚香で統一(爆)。孫夫人では誰かわかりにくいし、孫仁は一般的ではないし、実在する呼び名じゃないけど堅い事は言いっこなしで^^;。)が、呉国太の子となっている点にヒントがありそうです。つまり孫権にとっては義理の母で、孫尚香にとっては実の母。こういうポジションの人を作る事で、孫尚香の嫁入り前後の呉と蜀の微妙な駆け引きの中、どうして孫権は荊州侵攻を諦めたのか?周瑜が失敗したのはなぜか?というあたりが説明しやすい。つまり物語上のキーマンとしての役割です。当然その行動の結末は本人の思いとは関係なく劉備に良い方向に転がる訳です^^;。
  • しかし、では呉国太のような存在が呉にはいなかったのか?となると、そうではない。二話で述べたように、実は、孫堅の子には1人だけ呉夫人の子ではない庶子がいます。それが孫朗なわけです。しかし、この孫朗、裵松之の推測が正しいならば、222年に洞口の戦いで失態を演じて、孫氏の名を剥奪された挙げ句、死ぬまで禁固されており、少なくともこの処遇を見れば、孫朗の母と孫権の間は冷えている様子が見え、呉夫人の姉妹であるとは到底思えません。どちらかと言うと、良く知らない異母子に対する冷たさすら見えます。こう考えると、孫朗の母は、孫堅が長沙太守であった時期に、荊州で孫堅の側にいた女性の子??という感じがします。さらに言えば、陳寿の本文では【孫堅には4人の息子がいた。】と、孫朗の存在そのものが消されており、孫堅の側室がいたとしても、その存在は影の存在で呉国太のように国政に表立って参与できるような立場ではなかったでしょう。しかし、物語として、呉国太に国政に参与できる条件を与えるには、呉夫人の妹という設定は絶妙であり、また呉夫人の活発さをそのまま受け継ぐという意味でも、良い配役だったと言えるでしょう。その絶妙さが呉夫人と呉国太の同一視という、呉夫人にとっては不名誉なイメージそのものを生んでしまったとも言えますが^^;。